雲南貴州旅行(5) 麗江_束河_茶馬古道 [旅行]
茶馬古道は雲南から四川を経て、チベット、ネパール、インドに至る総延長約5000km、平均海抜4000mの通商路である。ここには馬幇と呼ばれる荷駄隊によってお茶、馬、毛皮、塩などが運ばれた。
漢代には麗江などに茶馬市ができ、雲南のお茶とチベットの馬の交易がおこなわれた。
●チベットは高地牧畜地帯のため肉食、乳製品主体、ツァンバ(チベット族の麦から作った主食)で、ビタミン不足になる。お茶はビタミン補給、脂肪分解、水分補給の役を果たす。
●中国歴代王朝は常に軍隊用の馬が不足していた。
唐代にはシルクロードとなり、宋代には茶馬司(役所)ができ発展。
明代には雅安にも茶馬司ができ、清代には民間商人(馬帮)が多数出現。
第二次大戦時には抗日物資の空輸拠点となった。唐代には南詔の銀生城(現・普洱市)付近の山地で採れる茶として中国にも知られていた。中国が雲南を領有した明代には普洱茶として広く知られるようになり、清代には雲南からの進貢品に指定され、朝廷でも愛飲された。愛新覚羅溥儀も愛好したという。
しかし、文化大革命(1966-1977年)によってその手間のかかる製造方法が毛沢東思想にそぐわないと否定され、一時は中国本土での生産が断絶するほどであった。このとき、多くの普洱茶が香港、台湾に持ち出されており、現在もビンテージものと呼ばれるプーアル茶の多くは台湾に存在している。現在では中国でも生産が再開されており、東南アジア、欧米、日本などにも輸出されている。
雲南貴州旅行(4) 麗江_麗江千古情 [旅行]
宋城丽江千古情景区
ナシ族は古い歴史を持つ知恵に優れた民族で、遠い昔に厳しい生活環境の中で輝かしいトンバ文明を作り出した。
静かで美しいルグ湖、古くからの神秘的な女性国家、夢のような人間の楽園。ここで生活を営むモソ人はナシ族の一部族。ルグ族は世界でただ一つの母系民族で、今でも「男は妻をめとらず、女は嫁に行かない」という「かよい婚」の風習がある。
麗江は茶馬古道で有名であり、麗江は馬のひずみが踏んでできたきらめきともいえる;千百年来山あり谷ありの茶馬古道では毎日荷駄隊の驚天動地な、鬼神をも泣かせるようなつらい命の楽章が演ぜられてきた。;朝廷と木府の輸送任務を帯びた荷駄隊が今日も出発した。
麗江はお茶と馬の市場で栄え、木府が麗江を統治した471年間、周辺の民族やミャンマー、ネパール、インドなど隣国と友好関係を結び、麗江は中国の西南地区の経済文化のかなめであった。西暦1382年明朝中央政府は、麗江の地方政府を皇帝に忠実にして愛国、精励して地方を治めた功績で表彰し、「木」姓を賜った。その知らせが届くと各民族と隣り合う国々はつぎつぎお祝いにやってきた。
ナシ民族は愛情の自由を貴ぶ民族で、もともとのかよい婚から「両親の言いつけで媒酌」の移行過程で、彼らは愛のために重い代償を負った。アメリカの学者ルークは言っている「歴史上その前後でナシ族の青年男女3万人が情死した」愛のために彼らはためらうことなく上品で純潔な「玉龍第三国」に走り去った。
四季が移ろい、時が移り、私たちは歴史の中からぬけだす。雪山は元のまま、古城は歌のごとし。毎年数千万の観光客が麗江に集まり、曾ての「情死」に震撼し、愛情の自由の信念を称揚して、ここに自分の楽園を探している!
雲南貴州旅行(3) 麗江_観音峡 茶馬街道関所 [旅行]
「茶馬古道」:雲南省で取れた茶をチベットの馬と交換した交易路。唐に始まり、宋明清と発展、20世紀中ごろが流通の絶頂期。観音峡は、麗江にある六つの関所の一つ--「玉龍関」の入り口。茶馬古道のうち雲南からチベットへの道、滇蔵街道の関所で、17世紀には木氏が取り仕切っていた。
この案内は中国語はわかりやすい日本語はひどい。
ひどすぎ。日本人は来ないのだろうか?
観音峡は 山水、湖、渓谷、森林などの自然の景観と 茶馬の古い町並み、ナシ族の村落、民俗、宗教風土人情などの文化が一体となった景勝地で、麗江盆地の三大難関の一つ「玉龍関所」にあり、往時茶馬古道滇蔵(雲南チベット)線の麗江を経てチベットに至る唯一の関所であり要塞であった。麗江の土司(元明清時代の少数民族の首長)木氏はここに税関と兵営を設置していた。
西暦1639年1月25日、我が国の大旅行家徐霞客が木氏の招きで麗江に来て、「盆地に川がめぐり、田畑がひろがっている・・・‘麗江の最初の鍵’」という賛美の言葉を残し、ためにここは「麗江第一景」の名がある。
ここには6カ所の観光区域がある:休憩区域、茶馬文化区域、龍潭水文化区域、渓谷区域、民俗風土展示区域、高原湖沼遊覧区域。
中国江南旅行(2) 杭州 西湖周り [旅行]
中国江南旅行(1) 寧波 天一閣 アジア最大の個人書籍収蔵 [旅行]
雲南貴州旅行(2) 大理(つづき) [旅行]
中国で強権発動の環境保護に地元から悲鳴:湖の水質改善で数千軒が営業停止に
5月20日の中央電子台の財経チャンネルでは、「経済半小時(経済30分)」という番組で「大理で洱海の保護戦争が火ぶたを切った(下)」:(WEDGE記事)
財経チャンネルの内容:約2000軒の宿営業停止と浄化設備設置命令、違法旅館の取り壊し。田んぼ休耕、補償金は1反当たり年3300元、鵜飼営業停止。民家の井戸使用禁止。排水溝、排水管設置、排水処理設備整備。農民は脱農業を迫られている。かなり過激だが、後代のためということで。湖の環境保護はどこでも難しいが、ここは水の循環が非常に悪く、問題解決には思い切った対策しなければならない。
雲南貴州旅行(1) 大理 [旅行]
北京のある通りのGDP現象 [中国語学習]
一条小街的GDP现象
ある通りのGDP現象
梁晓声 (2017) 中国人的人性与人生 現代出版社 P63一条小街的GDP现象
私の住んでいる通りの向かいは店舗が軒を連ね隙間もないほどだ。通りの端から端までそんな状態だ。
15年前その通りの片側に建物群(マンション)が建ち売り出された、平方当り6400元だった。私が引っ越してきた当時、通りの向かいは20世紀80年代中後期に建てられた平べったい5,6階建てが何棟もあった。その窓はその街に面し、入口は裏側で、各建物の窓側には高さ1mの鉄柵がめぐらされていた。その当時通りと歩道は同じ高さで、両者の境界ははっきりしなかった。当時タクシーはそこまで入ってきたし、通りの両側を自家用車が長時間占有しているようなことはなかった。私たちのその地区には地下車庫があり、空いていることが多く、不動産屋はマンションの持ち主に地下駐車場を借りるか買ってほしいと考えていた。しかし地上の駐車場は賃貸料が安く、先を見て地下駐車場を買う人は少なかった。
当時通り両側には老木がたくさん植わっていて、静かだが、物を買うのは不便だった。
その後、何時のころからかはっきりしないが、だいたい三四年後だろうか、通りに一群の建物群(マンション)が建ち、平方当たり1万強にもかかわらず飛ぶように売れた。通りの人口は数倍になり人口密度が高くなった。それに伴い、通りの向かいの鉄柵は取り払われ、その一階の住人が部屋を住民以外に貸し店舗になった。
当時私は海淀区の地区代表で、将来の状況を予測し、関係部門にこの種の商用賃貸を制限するよう提案した。
しかしどういうわけかこの提案は採用されなかった。
それから僅か1年後一階はすべて店舗になった。近隣の三か所の高層建物群(マンション)からなる地区の入居率は100%になり、各区域で駐車場が足りなくなった。各区域や通りで駐車場のことで諍いが絶えず、夜中になってもどこからかののしり声、泣きわめく声、たすけを求める声が響きわたっていた。
2005年頃には、三環と四環の間にあるその通りは北京で最も汚い所の一つとなった。朝晩車の渋滞が当たり前になり、炎天下には悪臭が漂い、雨が降れば足元には真っ黒な水や油があふれていた。もし靴や靴下が濡れたら、石鹸で洗っても脂っこい足はきれいにならなかった。
私は「緊綳的小街」に当時のその通りの状況を書いた。
今、具体的に言えば十八大後、通りの状況はかなり良くなった。いくつかの古い建物は更新され、保温層が追加され、通りも2回舗装され、左右共に歩道ができた。老木は減り、年々新しい木が高く伸びている。
その通りの乱雑な所の改良工事費用は、当時各方面から集めたお金と税金の合計よりはるかに多かったと思う。当時中国のある地方の「野蛮な発展」と同じでその後それ以上の労力、物量とお金で処理せざるを得なかった。しかし少しでも管理を緩めると元のもくあみになった。実際その通りの半分はすでに元に戻ってしまった。
その当時の不動産価格は平方当たり6万元、一部屋120平方の三居室の仲介業者の標準価格は約750万元だった。簡単に売れたことから、購入者は大半が外部の人だった。三か所の高層住宅地区の住人の2/3は外部、1/3はここの人や戻ってきた人。しかし見たところ7-80%は外部の人だ。
北京のどこかかしこの通りのように、この通りの両側は朝から晩まで車でいっぱいだ。往々にして右側あるいは左側には2列縦隊駐車もある。幸いにも通りは一方通行になっているのが、それに従わない車がいて往々にしてふんづまりになることがある。
通りには店舗が多く、居住民にとっては買い物便利という利点がある。買い物便利というのは生活の重要な条件だ。ともに便利さ、安さを追求した貸し手借り手でもある住民はある一時期利益を得た。2003年当時のここの店の年間賃貸料は1.8-2万元で、外部の人が借りることで、貸主の生計を助けた、ある人はこのちょっとした商売で田舎に家を建てるか村に家を買った、そのようにして家賃が貸主の生活水準向上につながったことは言うまでもない。たまたま市が道路の野菜などの露店を駆逐した時、住民中のおばさん連中が怒り、小売りに味方した。彼らは安く便利でありさえすればよかった。それで通りがこんなも乱雑になった。
幸いなことに住民の主要部分は彼女たちだけではない。そうでなければ管理が民意に従うかどうか
いま小店の家賃は年10-12万元に、電気代5角は1.54元に値上がりした。
もちろん通りの店や、奥のスーパーのものもすべてつれて値上がりした。もし収入が増えなければ実際の生活水準は下がったと言える。
烧饼シャオピンは5角から1元。
煎饼卷は2元から3,5,6元に。
油饼は1元から2元に、或いは2元5角に(甘いもの)。
おかず類の値上がりはあきらか
理髪は15元が20或いは25元、優待券使って20元か25元。
いくつかの店は行き詰った、マッサージ屋、洗濯屋、軽食菓子屋、雑貨屋などが店を閉めた。
少数向け或いは日常消費物資でないものを扱う店は基本的に永続きしなかった。しかし食堂、八百屋はしっかりと根を張っている。およそ食べると言う字にかかわる商売は、家賃高騰の負の面の影響を受けていない。床屋もそうだ。男性は一月に一回、女性は多くて年に2回なので、理髪店の値上がりには十分納得できる。しかしクリーニング店に対してはこうはいかない。クリーニング一件が当時の20元から今30-35元になったら多くの人は自宅の洗濯機で洗いたくなる。
やめたい人はどうぞ、大家には少しも危機感はない。やめて出ていくと数日後にはまた借り手が現れ、家賃が少し上がるのが普通だ。新しい借り手は大抵食べ物屋か、「吃」(食べ物)に関連したものの店だ。
通りの「吃」経済は一貫して盛んで、まさに民は食を以て天と為すだ。
通りの両端にコピー屋、東の店はスピード写真、西はプラスティックや防水紙製の材料への看板印刷も兼業している、東は影響が少ないが、西は広告制作2015年比で1/3減っている。看板はすべて店舗需要なので、新規開業が理髪店ではなく食料品にかかわらない店だけとすれば、看板製作店の苦境は続くだろう。
近くの翠微のような比較的大きな商店街でも似た状況だ。毎日店が開くとお客が殺到するが、2時間もするとお客が多いのは一階の食品街だけで、残りの宝飾化粧品売り場は極めて静かである。
服売り場の2階、家電売り場の3階はお客の姿が見えず、販売員は手持ちぶさただ。この2,3年こんな状況だ。
食べる、遊ぶ(旅行を含む)、次代養育費、自分の健康維持費用(医療費を含む)、 基本的に国民のこの四項目の消費が内需を牽引している。
不動産と自動車産業もGDPを牽引するがこれは両刃の剣で、時に一時しのぎであることは多言を要しない。
「広場舞」現象は、歌踊りの天下太平現象ではなく、下層民衆の心理的天下太平危機現象で、金をかけない健康維持方法である。
映画興行収入が近年急速に増加している、これは娯楽消費を惜しまない風潮の現れか。
海外旅行する中国人がよく海外で爆買い団と化していることに対し、愛国人を驚かせ大議論になっている、金持ちはなぜ国内で金を使わないのかと指弾。実際、中国人が国外で金を惜しまず消費するのは、外国品は高品質であるほか、国内品はコストパフォーマンスが悪い、さらに思う存分遊んだかどうかという心理が彼らを支配している。外国で何回か思いきり消費することで、そこでかっこよく遊んだ満足感が得られる。
当然上述の「四項目基本内容」国家内需に貢献してもそれだけでは十分ではない。
何に頼ればいいのか?
私も思い浮かばない
人類社会の経済発展史を通して、大多数の国家の内需GDPはその実この「四項目基本内容」による。
先進国と発展国、後進国を比べると、差がある、前者は外国人による消費を画策し、うまくいっている。対するに後者は一時上手くいっても長続きしない。
ゆえに前者においては輸出外貨獲得がGDP増加の主要部で、内需は最低保証だ。
中国の輸出外貨獲得の黄金期は過ぎ去り、「今度はいつ来る」かわからず、すぐに来るとは思えない。
中国も内需をひっぱり出し、それで最低保障にする時代になったのだ。
いまおしなべて中国人の内需品質は全体として上述のようにとても低いが、幸いにも14億近くの人口で、これはとてつもなく多く、GDP増加の底部をある時期支えるのは問題ではないだろう。
我々の中国経済発展はこのような段階に来てしまった、それは早すぎる成長をどう抑制するかではなく、経済失速をいかに食い止めるかである。
もしこれから先三四年、我が国GDP増加指数が6%以下になっても私は驚かない。もし六七年後に徐々に5%に落ちても、長期安定していればがっかりしない。
これは世界経済発展史上特に重視すべき現象だからである。
私たち中国は高度成長の心地よさから目覚め、気持ちを切り替え、冷静にこの経済成長速度低下の事実に向き合い、できるだけこの速度低下を比較的長期にわたって安全な範囲に留めなければならない。
これが私の「新常態」の先走った解釈だが、自身少しも先走っているとは考えていない。
私たち中国の経済総量がアメリカを追い抜く目標がいつ実現するかというような考えはとりあえず保留しておこう。
比べて、追いつく、超えるなどのつく目標はいいが、しかし遠大な目標は保留し、現実の国民の問題を着実に解決するのが賢明だ。
北京のつっぱった通り [中国語学習]
つっぱった通り
紧绷的小街 梁晓声:
http://www.wenming.cn/qmyd_pd/sz/201108/t20110803_269387.shtml?COLLCC=2443472059&
これは 一条通り的GDP现象(ある通りのGDP現象)梁晓声 (2017) 中国人的人性与人生 現代出版社 P63一条通り的GDP现象 の中で引用された文章である。
私が「我々のこの通りは法の下にあると思いますか?」と言うと
彼は苦笑いして言った「どんな法律で治められるのだ? 相互理解万歳、いたわりと調和だよ」
彼の話で私は突然十年来緊張感あふれるつっぱったこの通りが、なんとなくかもし出している品格、人と人のいたわりに気がついた。いわゆる調和、しかしこの通りではまずがまんだ。
これまで私は北京の三ヶ所に住んだことがある。
最初は昔の北京映画製作所:1977年から12年間長屋に住んだ。往々にして丸一週間そこから出ないで、昼夜、家、食堂、編集室事務棟の間を往復するだけで、まるで大学生活だった。長屋を出て30秒で食堂、食堂から事務棟まで5,6分で、現在の出勤退勤に3時間もかかるのに比べれば、仕事場がそんなに近いのはとてもよかった。
1988年末、中国児童映画製作所に変わり、次の都市その宿舎に移った。その通りの長さは北京映画製作所の表門から裏門にもおよばないほど狭く、片側は昔の大都の土壁だった。その頃はその壁には雑草が生え荒れ野の様相だった。通りの突き当りはある参謀本部の幹部保養所、所謂「死胡同」で、車は通れなかった。当時は車を持っている人は数えるほどでその通りに出入りする車は、タクシーを除けば幹部保養所の車だけだった。当時はタクシーに乗るのは豪奢なことで、その通りには北京映画製作所に住む大監督大役者が歩いたり、自転車に乗ったり、電動三輪車にのっている姿があった。車の後ろには連れ合いを載せていた。それぞれみな中国映画史上の重鎮だった。当時の北京映画製作所の裏門は直したばかりで通りは静かであった。
通りは徐々に露店が増え商店街になった。ほとんど何でも売っていた。ほかの所では見かけないものも買えた。私はこの通りで野生の蜂の巣を買ったことがある。友人は人造だと、すなわちシロップにサッカリンを加えさらに凝固剤を入れて型に流し込んで作ると言っていたが、作り方は簡単なのに「野生の蜂の巣」はとてもよくできていた。また長さ一尺のトカゲも買った。売っていた人は焼酎に生きたままつければ滋養強壮剤になると言っていた。私は酒のにおいをかいだだけで酔っぱらってしまうので、鑑賞用に飼って、そのうち生きたまま放してやった。私はそこの商店街で理髪したことがある。30分二十元で按摩してもらったこともある。按摩の男はしつこくシャツを脱ぐよう言ったので、逆らわず脱ぐと周りの注目の的になった。また輸出用だと言う純綿のシャツ3枚を十元で買ったこともある。
また私の名前写真の入りの海賊版5,6冊を買ったこともある。そのうち1冊は「愛と恨みの交織」という書名だったが、私が書いた本ではなかった。当時私はシャツを着て、ショートパンツをはき、壊れたスリッパを履いて頭はてかてかで、何日もひげ剃らず、露店にしゃがんで、その厚い本を見ながら、言った「この本は偽物だ」。
よそ者らしい売人の若者は睨みつけながら突っかかってきた「本が偽物だって?、偽物をずっと見てるじゃないか?買うのか買わないのか?」
私は、私が梁暁声で、こんな本書いたことないと言った。
彼は、見たところお前こそ偽物と言った。
そばにいた私の知り合いは中国には梁暁声が何人かいるが、こいつが作家の梁暁声だと言った。
若者はその本を取り上げると地面に並べた本の中にぽんと放って、まさか全中国で梁暁声と名乗るお前だけが作家というわけではあるまいと言った。
私はその本を記念に買う気になった。若者はさっき言ったことは嘘で、一銭も値引かない、好きにしろと言った。彼ののりに逆らわらず買った。私がマンションの入り口にいると、若者が若い娘を連れて、カメラを持って追いかけてきた。若者はその娘は彼の嫁といい、さらにあなたが本当の梁暁声なら、俺たち二人は縁があるんだ、おじさん、記念に一緒に写真を撮ろうと言った。そんなに誠意ある言葉を断れるわけがない。折よく来た人に頼み、私を中央に、若い夫婦を両脇に、夫婦が私の腕を掴んで写真を撮った。
その通りが汚くなったのはまず食べ物を作って売る露店---煎餅、揚げパン、各種粥、炒肝、春巻、ワンタン、串焼きの露店、さらに鶏鴨をつぶし、魚をひらく店・・・朝市が終わると、通りは散らかり放題、歩道と路面は油でべたべた、歩くと靴底にねばりついた。雨が降れば一面鍋を洗った水に覆われ、黒い水に腐った野菜の葉が漂い、時折油が浮いていた。
私はその通りで3回ケンカしたことがある。2回は大人の喧嘩で手は出さなかった。3回目は相手にビンタを食らわせた、但し私がやったのではなく、児童映画の青年監督孫誠が私に代わって殴った。その頃の通りは朝6,7時から9,10時まで混みあっていてまるで休日の縁日みたいだった。たとえネズミでも通り抜けられなかっただろう。ある朝、私が家にいると車のクラクションが鳴りっぱなし鳴って、窓から見るとタクシーの前に自転車が横たえてあって、自転車の両側には、30歳くらいで、きちんとした身なりの男女一人がいた。タクシーの後ろには引越し屋の大型車がいた。2台が塞いでいて人が通るのが精一杯だった。
私は下に降りて自転車の持ち主に自転車をまっすぐにするよう頼んだ。
その人は目を剥き「余計なことに口出しするな!」
タクシーの運転手に事情を聞いた、自転車にぶつけたの?
運転手はそんたことはないと言い、なぜじゃましているのかわからないと言った。
女は罵った「とぼけるな、お前はクラクションを鳴らし続けたのでむしゃくしゃしてるんだ。朝市から出さないぞ」
私はそれを聞いて頭にきて、自転車をどけタクシーを通そうとした。男は私を遮り、また自転車を横たえた。そんなことを3回繰り返し、男は自転車から鎖をとり私に振り上げてきた。
その時、その男の頬をパチッとたたいた。誰がたたいたのか見るまもなくまたパチッという音が聞こえた。
私がたたいたのが孫誠だと気付いた時には、男はおとなしく自転車を押していき、女も一緒に行き、振り返りもしなかった。
私は今もその男女がどうしてそんなことをしたのかわからない。
2年後この「自由市場」は取締りにあった。軍幹部保養所が軍部を通して働きかけたらしい。
今私は牡丹園北に十数年住んでいる、その通りも最初は静かだったが今商店街になり、タクシーの運転手が行くのを嫌がるところになってしまった。そこも十数年前に住んでいたあの通りと同じようになった。蒸し暑い夏、空気中には腐ったような臭い、路面は二度舗装したが、すぐに靴底は粘つく。雨が降れば、鍋を洗った水のようになる。ちょうど解放前金持ちの家の溝に注ぎ込まれた油臭い鍋洗い水のようで、路面の何か所は脂ぎった層が幾重にもなっていてスコップで一層づつ掘り起こせるほどだ。歩道は名ばかりで、何軒もの露店に占拠されている。昔と違うのは、道の両側にぎっしりと安い車が止めてあることだ、時折高級車もあるが。
早朝7時ころ「商業活動」開始、あたり一面揚げ物油臭が漂い、サラリーマンがせわしく行きかい、食べながらの人もいる。朝食を買った年寄りがゆったりと歩き、タクシーや自家用車が、年寄りたちがよろよろ歩くのを我慢強く待っている。8時ごろには通りは乱雑を極め、人出は多くなり、車も増える。いま安い中古車は1,2万元くらいなので、間口を借り小さな店を開いているよそものの店主の半分以上は車を持っていて、早朝は商品運びに忙しい。太平庄などの「国美」ショッピングモールの無料送迎バスが通りを走り回っており、小型車2台がやっとの道幅に、「国美」の大型バスが出くわすと方向転換する余地もなく30分や1時間の渋滞はいつものことだ、タクシーも自家用車の運転手も内心この大型車に嫌気がさしているが、無料なので、年寄りが喜んでいるのをみて我慢している。大型バスに座っている人も乗ろうとしている老人も往々にして疎ましげにタクシーや自家用車を眺める、明らかにタクシーや自家用車が悪いのだとばかりに。
夕方は朝よりもっとひどい。6時ころには小さな店のテーブルや椅子が歩道上まではみ出して並べられ、歩道はまるでその店の一部のよう。歩道がいっぱいになると道にはみ出す。焼肉、海鮮焼き、トオモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ焼きなどが出される。時代とともに食べ方も新たに。通りには焼きナス、焼きピーマン、焼きかりんの露店も現れた。最も流行っているのは海鮮の店で、毎晩歩道に20数卓並べ、意外にもBMWやアウディに乗ってきておいしそうに食べる男女もいて、往々にして深夜までいる。そんな男のうちにはシャツを脱ぎ裸になって汗だらけになり、大声でさいころをふったり、賭けたり、傍若無人だ。黒い煙と有害な空気の中で、歩行者は車を運転する人を嫌い、運転者は露店を開く人を嫌い、露天商は間口を借りた店主を嫌い、店を開いた人は大家を嫌う---家賃は値上がりし、道を占拠した店は間口を広げて稼ぐ人が多くなった。インフレのために北京に出てきて働く人のコストが非常に高くなった。たくさん稼がなかったらどうしたらいいのだ。もともとの住民はこれらのよそ者が嫌いだ。もともとこの通りはあんなに静かだったのに、いまよそ者がこの通りをどうしようと言うのだ。こうなると、この通りに住む人は皆内心同胞を嫌う……
そしてそんな時にわざと渋滞させる車がいる!
ある時家に帰ると一台のアウディが野菜の露店の前に斜めに止まっていた。斜めにとめ路面幅の1/3を占拠し、そのため前後に3,4台動けなくなった車がいた。クラクションがあちこちでなっていた。車には一人の男が乗っていて、ラジオを聴き悠々と煙草を吸っていた。
私は我慢しきれず車の窓に近づき「お前耳が聞こえないのか?」
彼は煙草を投げ捨てると、しぶしぶ車をまっすぐにして渋滞は解消した。彼は野菜を買いに行った女を待っていたのだった。その頃この通りの野菜は一番安かった。それにしてもたかが安い野菜を買うために、アウディ運転してまでこの通りに来て面倒を起すものか?私たちの一部の同胞は理解に苦しむ。
その男は車を動かす前に怖い顔で聞いた「さっき誰を罵ったんだ?」
私は歩道の雑貨に手を伸ばしモップを取って、彼よりも怒りに震えて「お前に決まってるだろう、バカが!」
多分私が年寄りなのを見て、私が怒っているのを見て、しかしどんな身分か推し量りかねて、自分の行いが道理に合わぬことなのに、しかし私を罵って走り去った。
彼はわざと渋滞を起したのではないか!
しかし何のために?今に至るもわからない。
またある時、一台の古い白のVWジェッタが町内の出入り口に横になっていて十数台の車がとじ込められ通りはまるで駐車場のようになっていて、通行人は皆車と車の隙間を、体をねじって通らなければならなかった。車にはだれもおらず、鍵がかかっていた。私を知っている人が小声で、道の反対側の歩道に、Tシャツを着てタバコを吸っている男が車の持ち主だと教えてくれた。彼はまるで覗きからくりでも見るように無茶苦茶な渋滞場面を見てせせら笑っていた。疑いもなく彼は車の持ち主だった。彼がいたずらしているのは、出入口の保安員に不快な目に合わされたからだった。
その時私の怒りは頂点に達した。もし古代で、武術にたけていたら、間違いなく駆けつけ派手に立ち回る、何が君子だ、構うもんか。
しかし私は年を取り、闘う力や勇気がない。
しかし罵る勇気はまだ残っている。そこで上品ぶらずそやつを睨みつけろくでなしなどとののしった。
私の罵りは少しも役には立たなかった。問題の最終解決は交通警察の人により、しかしそれは1時間強たってからのことだった。その1時間強の間、歩道上の露店の食卓の周りの人たちは飲み食いしながら騒ぎを見ていた。あたかも渋滞と歩道占拠には何ら関係ないとばかりに。
十余年前私がその児童映画の宿舎に住み、その通りにいた時、このように言う人がいたと聞いている、いつかみんなで金を出し合って強力な洗濯粉石鹸、数十個の金属ブラシを買い、噴水車を雇ってみんなで働いてその通りの油だらけの汚い通りを徹底的に磨きたい。
今こんなことをいう人がいるらしい、いつかタンクを運転し通りの端から端まで押しつぶしたい。こんな通りに永く住んでいたら発狂いてしまう!
この通りでは常に同胞間の嫌悪が引きおこされるだけなく、同胞間の憎しみが、同胞間の緊張感が発生する。めったなことで怒らせられない。誰もが弱者で、だれもが譲れない一線がある。ほとんどの人がじっと耐えて生きている、びくびくして。
街道委員会はこの通りには無策である。取り締まる法律がないと言う。
詩管理部門もこの通りには無策である。管理は必要だが強行してはいけないと言っている。しかし北京は模範都市なのになぜ強硬というのだ。
報道関係者に頼んでも一度も報道されたことはない。解決できることは報道しても、この通りの現状は解決しようがない(だから報道しない)と言う。
市長ホットラインに電話した人もいる。居住委員会の人が来て言った、簡単に解決できることは早く解決できたのではないの?耐えられないのなら思い切って引っ越したら!
この地区の責任者の人大代表に頼んだ人もいる。しかし区政府にこの通りの状況が反映されたことはない。私の見方はこうだ、露店毎に、店毎に、その大家毎に一家の生計がかかっている、生活というより生存問題、いろいろあるがこれが最大の問題だ。
この通りのあるところでは「都市美化管理大学」と赤字で書かれたところがある。数m離れた歩道上にはファストフードの露店がある。すぐそばに下水道口があり夏には鼻をつく臭気で吐きそうになる。
都市管理部門は手をこまねいていたわけではない。彼らはさっと下水道口をコンクリートで蓋してしまった。結果としてそこには露店の汚い洗い水の汚水だまりができた。夜になるとそれが近くの下水道口に流れ込み、他の下水道口も鼻をつくにおいで嘔吐しそうだった。
そこから数歩のところにかつては揚げ物露店があった。何年もたって油の鍋の上部の高圧電線には油がべっとりつき、まるで南方の農家のかまどの上にかかった何年物かのソーセージのようになっていた。柱上の変圧器は真っ黒にすすけていた。ある夜、都市管理部門が急襲して、そのあたりを舗装し直し、柵で囲い、柵内を「執行亭」にした。昼に露天店主はもう挽回できないとみたが、それでもそこで騒いだ。最終的には穏便に収まった。
もともと狭い所なのに、片側に歩道が、片側には80㎝幅の欄干があり、そちらには停車できないようになっていた。計算上は、斜め駐車すると路面の150㎝を占有するが、欄干を設ければ駐車できなくなるので、80㎝幅の欄干を設ければ違法駐車できないので路面は70㎝広く使える。やむを得ない次善の策で、一種精神上の勝利とでも言えようか。この通りでは都市管理部門と道を占有した露店主、無許可経営者、不衛生経営者との争い発生する可能性が極めて高いが、この十年来実際にはそんな争いは発生していない。争いではこの通りをよくすることはできない。このことは双方分かっていて、できるだけ相互に理解、相互にいたわりあっている。
店先や露店はどれも街を耐えらぬほど汚している。通りにはたくさんの理髪店、カメラ屋、ランドリー、コピー屋がある。また喫茶店、眼鏡屋、生花店、不動産屋、手作り靴皮靴屋もある。それらは住民にとって便利でありしかも環境に対し悪影響はない。私は2軒のコピー屋によく行く、その店主は農村から来ている。彼らの店の家賃は月5,6千元で、聞くところによれば毎年の純収入は5,6万元である。
そんなにも多くの人を養っている通り!家主も借主も年5,6万の収入があり、両方とも街の底辺、農村から来た同胞である。これが一番大事なことである。
ある街角に一人の法を守らないおばさんがいる、ほとんど毎日1㎡ばかりの露店でシエンヤーダンを売っている。1年4季、暑さ寒さにかかわらず十年余ここで頑張っている。
い日いくら儲かるのだろう?
その程度の収入でもどうしても必要というのでなければ、70歳強にもなって続けようと言う気になるだろうか?
そのおばさんの向かいには東北の農村から来た娘が昨年冬からその街かどで粥を売っている、トオモロコシが新鮮でとてもおいしい。彼女は1㎡ばかりの歩道を占拠しているだけである。道を占拠しての営業は違法であるが、彼女の言うところでは毎月4,5千元稼げるらしい。トオモロコシは自家製で、運賃を除けばほとんどコストがかからないので。
彼女はかつて私にこう言った「私は27になったがまだ結婚していない、私の相手は貧しく、私がここにきて金を稼がないと家が立てられない、こうする以外どうしたらいいの?」
更に十数歩歩くと農家の主婦が三輪車で豆乳、豆腐を売ってもう十余年になる。かたわらには棚付の車でシャオピンを売っている夫婦がいる。亭主が作り女房が売る、この通りの商売人と同じだ。学校の夏休み冬休みには両家とも小学生の女の子が来て大人の生計を支えている。灼熱の日には小さな顔は日に焼けて真っ黒、寒い冬には小さな手は腫れてポンポン。二人の女の子は早くから世の中にもまれた顔をしている。
ある時その一人に聞いてみた「二人は前からの知り合いだから、一緒に遊ぶんだろ?」
その答えは意外にも「暇がないの、それに話す気になれないの」
それを聞いて心が痛んだ。
五一節前に、その街角によそから50歳くらいの男が現れた。彼は、シエンヤーダン売りと靴の敷物売りの間の一尺くらいの幅を占有してそこにしゃがみ込み、木箱に硬い海綿を取り付けそこにキラキラ鮮やかに光る風鈴を5,6個刺して売っていた。彼が気になったのは、コストが安くて売っても大した金にもならないものを売っているからだけでなく、右手にもともと白なのに黒く汚れた安い軍手をはめていたからだ。
私は心中思った、よそ者の男や、北京で生計をたてられる、この通りで人は食っていけるが、風鈴を売ってもお前は一日分の飯代も稼げないぞ。おまえ頭おかしいんじゃないの?そんな仕事じゃ食えないぞ、そんなところにしゃがんで風鈴なんぞ売ってなんかおれないぞ。1回、2回、3回、4回と狩ればおばさんの間にしゃがんでいるのを見たが、5月が過ぎると彼は消えた。
靴底敷きを買うときおばさんに聞いた「風鈴はよく売れるの?」
おばさん「いいものか、ひと月たつのに数個売っただけ。1個1元でこの敷物より5角も安い」
シエンヤーダン売りのおばさんが続けて「彼は農村で働いていた時、片腕を失って、右手は義手だ。かわいそうと思うが、私たち二人も彼に割り込んできてほしくはない......」
私はしばらく言葉に詰まった。
シエンヤーダン売りのおばさんは言った、本当のところ一月にどれだけのシエンヤーダンも売れず、たった5,6百元稼げるだけだ。しかもその半分が手元に残るだけだ、農村にいる親戚が鴨を飼って鴨の卵を送ってきて、彼女が塩漬けし売る。
「娘たちの稼ぎは少ないのに、今学校に行く費用が高く、しかも私のように働いたことのない人間には年金はない」---彼女は隣の靴底敷き売りおばさんを指し「毎月孫にやる小遣いを稼げればいい、娘たちはただで私の面倒を見てくれはしない」
靴底敷き売りのおばさんもそうだと言うようにうなずいた。
私は思わず豆製品売りとシャオピン売りを思い出した。彼らの女の子は親を助けて稼いでいる。父母は普通働いていて小さな女の子は毎月小遣いがいる。街の子特に北京の小さな女の子はよその農村の小さな女の子とは大差がある。
私の最近は癇癪は意外にもおさまっている。私は一日一日年々歳々この通りに学び、徐々に私の怒りやすい性格とこの通りとは全く相いれないことがわかった。腹立たしいことに出会ったら、怒りを抑えられ、うまく取り持つ。それもおっくうなら見なかったことにして踵を返す。
その通りでは私の罵り声は少なくなったが、状況は悪化しなかった。何回か私が大声で罵ったが状況はよくはならなかった、それと同じだ。
多くの人が私と同じようにおとなしくなった。
ある時かつてタンク車で通りを押しつぶしたいと言った人にあった。
私が「我々のこの通りは法の下にあると思いますか?」と言うと
彼は苦笑いして言った「どんな法律で治められるのだ? 相互理解万歳、いたわりと調和だよ」
彼の話で私は突然十年来緊張感あふれるこの通りが、なんとなく作り出している品格、人と人のいたわりに気がついた。いわゆる調和、しかしこの通りではまずがまんだ。
同胞の生計、生活、生存の苦しみ、この通りにはっきり表れている。この通りにも小学校がある、レンガの塀に囲まれ---
そこに陶行知の胸像と「愛満天下」の4文字がはめ込まれている。塀の根元の背の低い冬青の草むらは汚れて葉にはいつも痰がへばりついている。行知先生は終日塀の上からこの街を見ている、私はいつも彼のまなざしはだんだん憂鬱になってきているが、しかし穏やかになっていると感じる。
時に緊張したが、この十年余、血を見るような暴力衝突もなく、ここ街の品格には全く感服させられる。
この通りで起こった疎ましいことは、よく考えると結局は容認できるものだ。
中国で起こっている疎ましいことは、しかし「容認」の2字で軽々しく対応できない。
「为之于未有,治之于未乱まだ問題がなんでもない間にことを処理し、混乱しないうちに収拾しなさい」老子のこの言葉はどんな言葉にも勝る!
2011/7/13
(訳注 Wikiと百度百科から)
陶行知 とうぎょうちYao Hang-zhi[生]1891. 安徽[没]1946
中国の教育家。南京の金陵大学を卒業,1914年アメリカに留学。都市政策を学ぶが,のちコロンビア大学でモンロー,デューイらに師事し教育学を修める。 16年帰国し,南京高等師範学校教授となり,プラグマティズム教育学の紹介と導入に努めたが辞職。平民教育運動にたずさわり,郷村師範学校建設に尽力した。 1927年,南京郊外に暁荘師範学校を設立,徹底した経験主義的な教育を行う。また,上海郊外にも山海工学団を開設して「小先生」の方法を提唱,実施した。日中戦争中は国難教育社を組織して抗日教育運動を進めた。
为之于未有,治之于未乱
典出:《老子》。
原文:其安易持,其未兆易谋;其脆易泮,其微易散。为之于未有,治之于未乱。合抱之木,生于毫末;九层之台,起于累土;千里之行,始于足下。
释义:做事,要在尚未发生以前就着手;治理国政,要在祸乱没有产生以前,就早做准备。
譴責だけでは済まない 中国の子供患者遺棄事件と医療弱者救済 [中国語学習]
譴責だけでは済まない 中国の子供患者遺棄事件と医療弱者救済
出典 梁暁声2017中国人的人性与人生 仅仅谴责是不够的 P103-107
医療費を払えない貧しい庶民は、メディアに泣きつけ!
そんな弱者のために慈善基金をつくれ!
メディアは人道報道を!病院は医療道徳をまもれ!
このような主張。この背景には、発展途上の医療保険制度の問題がある。
背景:中国の公的医療保険 2016年、都市ごとに、村ごとに異なる。
■都市部の就業者 (保険料率は賃金の8~10数%。うち本人負担は2%、他は雇用主)
■都市部の就業していない人(保険料は年数百元程度)
■農村戸籍者向け(保険料は年百元弱)
制度は試行錯誤しつつ充実しつつあるが、雇用主が保険料を支払っていない、本人が保険料払えず、保険者になれずに全額自己負担となって、医療費が払えないために治療を諦めるケースが続出している。
医療費の保険金は全く社会主義的なものではない。
医療費が最低金額Minまでは自己負担、
最高金額Max以上は自己負担(ある金額以上は保険金でるという日本のような甘い制度ではない)
Min-Maxの間は例えば保険金50%
薬は指定薬以外は自己負担
参考記事:中国の診察料、標準費用はあるのか?病院によって異なる費用!
以下はたどたどしい訳文
わずか三歳の男の子が父親により国立病院に遺棄された。その男の子は白血病、身内は法律上の扶養義務ある父親であるが、子供の医療費を負担する能力がない。病院の説明では、子供の生命維持に毎日最低3百元必要。子供の命を維持するには骨髄移植が必要で少なくとも三十万元がいる。
子供の父親は農民である。中国では、普通の農民がそのような高額医療費を負担できないは周知の事実である。身体強固建康な身内十人が毎月一回血を売りでもすれば十年後にようやく三十万元貯められる。しかし十年間毎日三百元の医療費はどこから来るのか?農民の子供のために順番に献血する身内はどれだけいるだろう?
その父親はすでに破産同然でおろおろするばかりだ。彼を調査した人物でさえTVのカメラに向かって「彼は譴責されるべきだが、実情を見ると我々も同情を禁じ得ない」と言っている。中国では似たような状況が沢山発生している。今後増加することも考えられる。
このような事件を単に何か肉親の情、倫理的な現象としてではなく明らかな社会問題と認識すべきであり、肉親の情、倫理の面からの譴責だけでは不十分であると考える。
TVは、厳粛、むしろ緊迫した表情の病院のスポークスマンにインタービューしていた。私の記憶に間違いがなければ、それは共产主义青年团委员会の書記であった。彼はこのような話をした:「なんということだ、まさかこんな方法で社会に押し付けようとは?」私は彼の見解にまったく賛同できない。
私は彼の見方に対し率直に言わないではおれない。私はこの種の出来事にこのように対応する人に強い反感を覚えるから。
はっきりしているのは自分の息子の命を救おうとしても、自分の経済能力では救えない、明らかに一種の貧困現象で、明らかに全社会が注目すべき社会問題であるのに、それをどうして「社会に押し付ける」と言わなければならないのだろうか?
「社会に押し付ける」この言葉は重い!事をこのように扱うと言うことは、社会問題的性格の現象を直接政治問題的現象に持ち上げてしまうのではないか?
「社会に押し付ける」これはこのような出来事は皆社会を脅かす行為だと言っているのと同じだ!
幸いにもこれは共产主义青年团委员会の書記だけの考えで、仮にももっと職位の高い人にこのような考えがあれば調和のとれた社会建設に有害無益な思想である。
当然私もその父親のやり方に賛成はできない。本件が報道されるや、すぐに善良な人たちが義捐金三十万余円を出したのではないか?もう一度言うと、私たちの社会で、特に民間において、無数の民衆の心に、互助精神がしっかり根をおろし、出てくる反応がとても速く、表わされる真心はとても貴重で、だからこそ感動的なのだ。
これは、不幸にも自分ひとりではどうすることもできない人への啓示である、即ちもしどこにも助けを求めるところがないのなら、できるだけ早くメディアに助けを求めるべきだ。遺棄するのは理性的ではなく、かつ唯一の方法でもない。
これはメディアに対する啓示でもある。メディアは単に客観的キャリアではなく、時に主観的キャリアでなければならない。主観だからこそ感動を呼べるのだ。つまりメディアは人間性を備えた社会公器でなければならない、さもなければメディアが社会の良知を担う義務という自覚すべき前提がなくなる。中国ではメディアは、なすべもない弱いものの為に、出来うる限り、義により大声を上げることが、メディア報道の最大の意義の一つで、これは絶対に小さくはない。メディアにとって、やたら主観的に飽きもせずあそこは何星級、こちらは何星級と知名度を争うのに比べ、義により立ち向かうことの意義はとても大きい。メディアがこのような義務を担うのはとても貴重だ。本件の報道の中で、関連したメディアの報内容はとてもよかった、ただぶちまけるだけでなく、人間的なものだった。人間味ある報道でありさえすれば民間の互助精神を喚起するのに役に立つ。
このことによる病院への啓示は:私が先にその病院について述べたとき、「国立」という二字を使った。これは「私立」と対比した言い方だ。私は、学校、病院、は特殊な組織と思う、もし公共的性格を備えているなら、同時に国立の品格を備えていなければならない。「国立」病院の品格とは何か?いつも人道主義を旨とすることだ。庶民はこの原則でもって、国に対し当然の評価をししなければならない。大きくても小さくても、省市一級であれ、農村の一級であれ、国立なら皆国家精神で、つまりもし私立病院が傷病者にお金第一で対応するなら、庶民はその経営者を見下げるだろう。もし国立病院がそうなら、国のイメージを損なうだろう。
今回病院の反応や態度は良好だった。医者看護師の反応や態度も良好だった。白血病患者の子供が病院に遺棄されたからと言って、だれも彼の医療費を負担しなかったが、病院は必要な治療をした。まさしく国立病院が人道主義を旨とする面でとてもうまく機能し、指弾されるものなく、庶民が手を差し伸べるタイミングも良く、とても積極的だった。ここにおいて国家精神と庶民意識うまく呼応した。
しかし近年ある病院、国立病院でさえ、その処置に庶民をあっと驚かせるものがある、憤慨以外ほかのどんないい感情も起きない問題外の行動だ。その種の病院でこのようなことがあった時の第一の反応は、当病院は本当に運が悪い、金なしで看病なんて、そんなことできるところはない。人命が大事というのは病人個人のこと! 病院でそんな病人を治療しそれで損したら私の責任だ!私のこの責任をだれが面倒見てくれるんだ?彼らの第一の反応は完全に病院の人道主義に反していて、彼らが救急治療が必要な病人を病院から運びだしどこかに投げるなどのほか、全く善良と言えない行為がある。報道では曾てある病院では葬儀屋に生きたまま火葬させたと言う劣悪な事件もあり、これはすべて極端に非人道的心理のなせる業である。このような「国立」病院の劣悪な行為は庶民の国家精神に対する大きな疑義を生む。国家のイメージが大いに損なわれる。これは金では贖えない。
このことは国家即ち政府への啓示である:いかなる病院、規模の大小を問わず、国家に代わり無料で愛情を持って一手に弱い庶民の命を救うのは不可能だ。中国は13億の人口があり弱い人の数は億にもなり、一本、数本のろうそくが百千万の人を照らせるだろうか?医療保険もいいがしかし既に不幸にも弱者となっているなら、その保険費も納められない。遥かに帆の見える舟、目の前の深い波の中の人をだれが助られようか?民生部門?我々はみんな知っている、中国では民生部門は災害救助活動期間の職能しかなく、国は毎年充分な救助費も出せないでいることを知っている。中華慈善総会は?彼らには苦労して集めたお金があるが、中国の膨大な弱者には焼け石に水であることも知っている。その支部は、省一級に設置されているが、そして沢山の省に設置されているが見かけだけだ。
それなら、どうしようもないのか?当然方法はある。さらに国がやることやらないことを決めれば。即ち経済能力のある公用、私企業をたきつけその納税額比例で、1/100から5/100の割合で積み立てる会社あるいは企業名の慈善基金を作る。この基金は当然免税とする。 千本の川が海に流れ込むような慈善では、せいぜい義捐募金方式で集める「計画経済」「統一買付統一販売」のような政策が精一杯で、弱者が病を見くびり医療に頼れない厳しい現実には合わないことは立証済みだ。慈善は社会全体のことで、どうして社会全体がするのを歓迎しないわけはない。
慈善の看板の下で合法的な脱税する人が出るのを心配するのに対しては、私はあまりにも小さなことにこだわって大義を見失っていると思う。中国はたくさんの中国特有の複雑なことを管理する能力があり、たったこれだけのことができないわけがない。各級の民政部門に慈善基金を名乗る組織が毎年慈善救助に使っているかどうか検査させる、民政部門の職能がしっかりと動員されるだろう。
更に経験的な社会学の真相二点、その一つ文明社会の文明企業と文明素養ある企業家、双方ともに自ら社会から高尚であると認めてもらいたがっている。慈善事業がそうだ。ただ彼ら双方を大口慈善義捐家とみなし、金出すあなた、受け取る私というような簡単な考え方は企業の人間重視、人間性高尚化社会発展の規律と相いれない。このままいけば、この規律は漠然としたままで、企業が真に人間重視とはならず、人間性の高尚化は期待できない。私と同じように慈善問題を進んで考えるみなさん、ある大きなレストランで一卓198万元の前売りは売り切れという報道を読んでみてください、考えさせられのではないでしょうか?もう一つは、メディアがうまく悲劇を報道しさえすれば庶民の善良な気持が簡単に動かされる、このような認識は完全間違いだ。
そうではない、社会の真相はそうではない。慈善は単に庶民のことではない。庶民の人道精神は国家の人道精神に主導され、庶民の憐みの心は国家の憐みの心で引き立てられなければならない。