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雲南貴州旅行(5) 麗江_束河_茶馬古道 [旅行]

2017/9/17 前日に飛行機で貴陽から麗江。

 今日は茶馬古道の勉強。

麗江 ナシ族の古鎮 束河 茶馬古道

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古鎮の様子
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きれいな水を大切に。三眼井、飲料水、野菜洗い、洗浄。
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大覚宮には茶馬古道博物館
大覚宮は壁画展示
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雲南大学の木弘教授(西族)は,茶馬の道を実地研究し、茶馬古道と名付けた。2004年には古道を紹介したドキュメンタリ「茶馬古道シリーズ徳古道系列之德拉姆」を制作。ここで予告編がみられる。
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以下はその受け売り。

茶馬古道は雲南から四川を経て、チベット、ネパール、インドに至る総延長約5000km、平均海抜4000mの通商路である。ここには馬幇と呼ばれる荷駄隊によってお茶、馬、毛皮、塩などが運ばれた。

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漢代には麗江などに茶馬市ができ、雲南のお茶とチベットの馬の交易がおこなわれた。

●チベットは高地牧畜地帯のため肉食、乳製品主体、ツァンバ(チベット族の麦から作った主食)で、ビタミン不足になる。お茶はビタミン補給、脂肪分解、水分補給の役を果たす。

●中国歴代王朝は常に軍隊用の馬が不足していた。

唐代にはシルクロードとなり、宋代には茶馬司(役所)ができ発展。

明代には雅安にも茶馬司ができ、清代には民間商人(馬帮)が多数出現。

第二次大戦時には抗日物資の空輸拠点となった。
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代には南詔銀生城(現・)付近の山地で採れる茶として中国にも知られていた。中国が雲南を領有した代には普茶として広く知られるようになり、代には雲南からの進貢品に指定され、朝廷でも愛飲された。愛新覚羅溥儀も愛好したという。

しかし、文化大革命1966-1977年)によってその手間のかかる製造方法が毛沢東思想にそぐわないと否定され、一時は中国本土での生産が断絶するほどであった。このとき、多くの普茶が香港、台湾に持ち出されており、現在もビンテージものと呼ばれるプーアル茶の多くは台湾に存在している。現在では中国でも生産が再開されており、東南アジア、欧米、日本などにも輸出されている。

馬帮(荷駄隊):山岳地帯の交易路は険しく、盗賊にも遭遇。renbang.jpg

山越え 
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河越え
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食事は馬帮リーダー(鍋頭と呼ばれた)が手下たちに鍋からわけあたえた。
四川の火鍋?
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ああ! ここでも日本軍が。
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博物館の外には木瓜や金木犀
中国の詩によく出てくる木瓜
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