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北京のつっぱった通り [中国語学習]

つっぱった通り

紧绷的小 声:

http://www.wenming.cn/qmyd_pd/sz/201108/t20110803_269387.shtml?COLLCC=2443472059&

これは 一条通り的GDP现象(ある通りのGDP現象)梁晓声 (2017) 中国人的人性与人生 現代出版社 P63一条通り的GDP现象 の中で引用された文章である。

 紧绷的小街res02_attpic_brief.jpg

私が「我々のこの通りは法の下にあると思いますか?」と言うと

彼は苦笑いして言った「どんな法律で治められるのだ? 相互理解万歳、いたわりと調和だよ」

 彼の話で私は突然十年来緊張感あふれるつっぱったこの通りが、なんとなくかもし出している品格、人と人のいたわりに気がついた。いわゆる調和、しかしこの通りではまずがまんだ。

これまで私は北京の三ヶ所に住んだことがある。

 最初は昔の北京映画製作所:1977年から12年間長屋に住んだ。往々にして丸一週間そこから出ないで、昼夜、家、食堂、編集室事務棟の間を往復するだけで、まるで大学生活だった。長屋を出て30秒で食堂、食堂から事務棟まで56分で、現在の出勤退勤に3時間もかかるのに比べれば、仕事場がそんなに近いのはとてもよかった。

 1988年末、中国児童映画製作所に変わり、次の都市その宿舎に移った。その通りの長さは北京映画製作所の表門から裏門にもおよばないほど狭く、片側は昔の大都の土壁だった。その頃はその壁には雑草が生え荒れ野の様相だった。通りの突き当りはある参謀本部の幹部保養所、所謂「死胡同」で、車は通れなかった。当時は車を持っている人は数えるほどでその通りに出入りする車は、タクシーを除けば幹部保養所の車だけだった。当時はタクシーに乗るのは豪奢なことで、その通りには北京映画製作所に住む大監督大役者が歩いたり、自転車に乗ったり、電動三輪車にのっている姿があった。車の後ろには連れ合いを載せていた。それぞれみな中国映画史上の重鎮だった。当時の北京映画製作所の裏門は直したばかりで通りは静かであった。

 通りは徐々に露店が増え商店街になった。ほとんど何でも売っていた。ほかの所では見かけないものも買えた。私はこの通りで野生の蜂の巣を買ったことがある。友人は人造だと、すなわちシロップにサッカリンを加えさらに凝固剤を入れて型に流し込んで作ると言っていたが、作り方は簡単なのに「野生の蜂の巣」はとてもよくできていた。また長さ一尺のトカゲも買った。売っていた人は焼酎に生きたままつければ滋養強壮剤になると言っていた。私は酒のにおいをかいだだけで酔っぱらってしまうので、鑑賞用に飼って、そのうち生きたまま放してやった。私はそこの商店街で理髪したことがある。30分二十元で按摩してもらったこともある。按摩の男はしつこくシャツを脱ぐよう言ったので、逆らわず脱ぐと周りの注目の的になった。また輸出用だと言う純綿のシャツ3枚を十元で買ったこともある。

 また私の名前写真の入りの海賊版56冊を買ったこともある。そのうち1冊は「愛と恨みの交織」という書名だったが、私が書いた本ではなかった。当時私はシャツを着て、ショートパンツをはき、壊れたスリッパを履いて頭はてかてかで、何日もひげ剃らず、露店にしゃがんで、その厚い本を見ながら、言った「この本は偽物だ」。

 よそ者らしい売人の若者は睨みつけながら突っかかってきた「本が偽物だって?、偽物をずっと見てるじゃないか?買うのか買わないのか?」

 私は、私が梁暁声で、こんな本書いたことないと言った。

彼は、見たところお前こそ偽物と言った。

そばにいた私の知り合いは中国には梁暁声が何人かいるが、こいつが作家の梁暁声だと言った。

若者はその本を取り上げると地面に並べた本の中にぽんと放って、まさか全中国で梁暁声と名乗るお前だけが作家というわけではあるまいと言った。

私はその本を記念に買う気になった。若者はさっき言ったことは嘘で、一銭も値引かない、好きにしろと言った。彼ののりに逆らわらず買った。私がマンションの入り口にいると、若者が若い娘を連れて、カメラを持って追いかけてきた。若者はその娘は彼の嫁といい、さらにあなたが本当の梁暁声なら、俺たち二人は縁があるんだ、おじさん、記念に一緒に写真を撮ろうと言った。そんなに誠意ある言葉を断れるわけがない。折よく来た人に頼み、私を中央に、若い夫婦を両脇に、夫婦が私の腕を掴んで写真を撮った。

北京朝陽区.jpg

その通りが汚くなったのはまず食べ物を作って売る露店---煎餅、揚げパン、各種粥、炒肝、春巻、ワンタン、串焼きの露店、さらに鶏鴨をつぶし、魚をひらく店・・・朝市が終わると、通りは散らかり放題、歩道と路面は油でべたべた、歩くと靴底にねばりついた。雨が降れば一面鍋を洗った水に覆われ、黒い水に腐った野菜の葉が漂い、時折油が浮いていた。

 私はその通りで3回ケンカしたことがある。2回は大人の喧嘩で手は出さなかった。3回目は相手にビンタを食らわせた、但し私がやったのではなく、児童映画の青年監督孫誠が私に代わって殴った。その頃の通りは朝67時から910時まで混みあっていてまるで休日の縁日みたいだった。たとえネズミでも通り抜けられなかっただろう。ある朝、私が家にいると車のクラクションが鳴りっぱなし鳴って、窓から見るとタクシーの前に自転車が横たえてあって、自転車の両側には、30歳くらいで、きちんとした身なりの男女一人がいた。タクシーの後ろには引越し屋の大型車がいた。2台が塞いでいて人が通るのが精一杯だった。

 私は下に降りて自転車の持ち主に自転車をまっすぐにするよう頼んだ。

 その人は目を剥き「余計なことに口出しするな!」

 タクシーの運転手に事情を聞いた、自転車にぶつけたの?

 運転手はそんたことはないと言い、なぜじゃましているのかわからないと言った。

 女は罵った「とぼけるな、お前はクラクションを鳴らし続けたのでむしゃくしゃしてるんだ。朝市から出さないぞ」

 私はそれを聞いて頭にきて、自転車をどけタクシーを通そうとした。男は私を遮り、また自転車を横たえた。そんなことを3回繰り返し、男は自転車から鎖をとり私に振り上げてきた。

 その時、その男の頬をパチッとたたいた。誰がたたいたのか見るまもなくまたパチッという音が聞こえた。

 私がたたいたのが孫誠だと気付いた時には、男はおとなしく自転車を押していき、女も一緒に行き、振り返りもしなかった。

 私は今もその男女がどうしてそんなことをしたのかわからない。

2年後この「自由市場」は取締りにあった。軍幹部保養所が軍部を通して働きかけたらしい。

  今私は牡丹園北に十数年住んでいる、その通りも最初は静かだったが今商店街になり、タクシーの運転手が行くのを嫌がるところになってしまった。そこも十数年前に住んでいたあの通りと同じようになった。蒸し暑い夏、空気中には腐ったような臭い、路面は二度舗装したが、すぐに靴底は粘つく。雨が降れば、鍋を洗った水のようになる。ちょうど解放前金持ちの家の溝に注ぎ込まれた油臭い鍋洗い水のようで、路面の何か所は脂ぎった層が幾重にもなっていてスコップで一層づつ掘り起こせるほどだ。歩道は名ばかりで、何軒もの露店に占拠されている。昔と違うのは、道の両側にぎっしりと安い車が止めてあることだ、時折高級車もあるが。

 早朝7時ころ「商業活動」開始、あたり一面揚げ物油臭が漂い、サラリーマンがせわしく行きかい、食べながらの人もいる。朝食を買った年寄りがゆったりと歩き、タクシーや自家用車が、年寄りたちがよろよろ歩くのを我慢強く待っている。8時ごろには通りは乱雑を極め、人出は多くなり、車も増える。いま安い中古車は1,2万元くらいなので、間口を借り小さな店を開いているよそものの店主の半分以上は車を持っていて、早朝は商品運びに忙しい。太平庄などの「国美」ショッピングモールの無料送迎バスが通りを走り回っており、小型車2台がやっとの道幅に、「国美」の大型バスが出くわすと方向転換する余地もなく30分や1時間の渋滞はいつものことだ、タクシーも自家用車の運転手も内心この大型車に嫌気がさしているが、無料なので、年寄りが喜んでいるのをみて我慢している。大型バスに座っている人も乗ろうとしている老人も往々にして疎ましげにタクシーや自家用車を眺める、明らかにタクシーや自家用車が悪いのだとばかりに。

 

 夕方は朝よりもっとひどい。6時ころには小さな店のテーブルや椅子が歩道上まではみ出して並べられ、歩道はまるでその店の一部のよう。歩道がいっぱいになると道にはみ出す。焼肉、海鮮焼き、トオモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ焼きなどが出される。時代とともに食べ方も新たに。通りには焼きナス、焼きピーマン、焼きかりんの露店も現れた。最も流行っているのは海鮮の店で、毎晩歩道に20数卓並べ、意外にもBMWやアウディに乗ってきておいしそうに食べる男女もいて、往々にして深夜までいる。そんな男のうちにはシャツを脱ぎ裸になって汗だらけになり、大声でさいころをふったり、賭けたり、傍若無人だ。黒い煙と有害な空気の中で、歩行者は車を運転する人を嫌い、運転者は露店を開く人を嫌い、露天商は間口を借りた店主を嫌い、店を開いた人は大家を嫌う---家賃は値上がりし、道を占拠した店は間口を広げて稼ぐ人が多くなった。インフレのために北京に出てきて働く人のコストが非常に高くなった。たくさん稼がなかったらどうしたらいいのだ。もともとの住民はこれらのよそ者が嫌いだ。もともとこの通りはあんなに静かだったのに、いまよそ者がこの通りをどうしようと言うのだ。こうなると、この通りに住む人は皆内心同胞を嫌う……

 そしてそんな時にわざと渋滞させる車がいる!

ある時家に帰ると一台のアウディが野菜の露店の前に斜めに止まっていた。斜めにとめ路面幅の1/3を占拠し、そのため前後に34台動けなくなった車がいた。クラクションがあちこちでなっていた。車には一人の男が乗っていて、ラジオを聴き悠々と煙草を吸っていた。

私は我慢しきれず車の窓に近づき「お前耳が聞こえないのか?」

彼は煙草を投げ捨てると、しぶしぶ車をまっすぐにして渋滞は解消した。彼は野菜を買いに行った女を待っていたのだった。その頃この通りの野菜は一番安かった。それにしてもたかが安い野菜を買うために、アウディ運転してまでこの通りに来て面倒を起すものか?私たちの一部の同胞は理解に苦しむ。

その男は車を動かす前に怖い顔で聞いた「さっき誰を罵ったんだ?」

私は歩道の雑貨に手を伸ばしモップを取って、彼よりも怒りに震えて「お前に決まってるだろう、バカが!」

多分私が年寄りなのを見て、私が怒っているのを見て、しかしどんな身分か推し量りかねて、自分の行いが道理に合わぬことなのに、しかし私を罵って走り去った。

彼はわざと渋滞を起したのではないか!

しかし何のために?今に至るもわからない。

 またある時、一台の古い白のVWジェッタが町内の出入り口に横になっていて十数台の車がとじ込められ通りはまるで駐車場のようになっていて、通行人は皆車と車の隙間を、体をねじって通らなければならなかった。車にはだれもおらず、鍵がかかっていた。私を知っている人が小声で、道の反対側の歩道に、Tシャツを着てタバコを吸っている男が車の持ち主だと教えてくれた。彼はまるで覗きからくりでも見るように無茶苦茶な渋滞場面を見てせせら笑っていた。疑いもなく彼は車の持ち主だった。彼がいたずらしているのは、出入口の保安員に不快な目に合わされたからだった。

 その時私の怒りは頂点に達した。もし古代で、武術にたけていたら、間違いなく駆けつけ派手に立ち回る、何が君子だ、構うもんか。

しかし私は年を取り、闘う力や勇気がない。

 しかし罵る勇気はまだ残っている。そこで上品ぶらずそやつを睨みつけろくでなしなどとののしった。

 私の罵りは少しも役には立たなかった。問題の最終解決は交通警察の人により、しかしそれは1時間強たってからのことだった。その1時間強の間、歩道上の露店の食卓の周りの人たちは飲み食いしながら騒ぎを見ていた。あたかも渋滞と歩道占拠には何ら関係ないとばかりに。

 十余年前私がその児童映画の宿舎に住み、その通りにいた時、このように言う人がいたと聞いている、いつかみんなで金を出し合って強力な洗濯粉石鹸、数十個の金属ブラシを買い、噴水車を雇ってみんなで働いてその通りの油だらけの汚い通りを徹底的に磨きたい。

 今こんなことをいう人がいるらしい、いつかタンクを運転し通りの端から端まで押しつぶしたい。こんな通りに永く住んでいたら発狂いてしまう!

 この通りでは常に同胞間の嫌悪が引きおこされるだけなく、同胞間の憎しみが、同胞間の緊張感が発生する。めったなことで怒らせられない。誰もが弱者で、だれもが譲れない一線がある。ほとんどの人がじっと耐えて生きている、びくびくして。

 街道委員会はこの通りには無策である。取り締まる法律がないと言う。

 詩管理部門もこの通りには無策である。管理は必要だが強行してはいけないと言っている。しかし北京は模範都市なのになぜ強硬というのだ。

 報道関係者に頼んでも一度も報道されたことはない。解決できることは報道しても、この通りの現状は解決しようがない(だから報道しない)と言う。

 市長ホットラインに電話した人もいる。居住委員会の人が来て言った、簡単に解決できることは早く解決できたのではないの?耐えられないのなら思い切って引っ越したら!

 この地区の責任者の人大代表に頼んだ人もいる。しかし区政府にこの通りの状況が反映されたことはない。私の見方はこうだ、露店毎に、店毎に、その大家毎に一家の生計がかかっている、生活というより生存問題、いろいろあるがこれが最大の問題だ。

 この通りのあるところでは「都市美化管理大学」と赤字で書かれたところがある。数m離れた歩道上にはファストフードの露店がある。すぐそばに下水道口があり夏には鼻をつく臭気で吐きそうになる。

 都市管理部門は手をこまねいていたわけではない。彼らはさっと下水道口をコンクリートで蓋してしまった。結果としてそこには露店の汚い洗い水の汚水だまりができた。夜になるとそれが近くの下水道口に流れ込み、他の下水道口も鼻をつくにおいで嘔吐しそうだった。

 そこから数歩のところにかつては揚げ物露店があった。何年もたって油の鍋の上部の高圧電線には油がべっとりつき、まるで南方の農家のかまどの上にかかった何年物かのソーセージのようになっていた。柱上の変圧器は真っ黒にすすけていた。ある夜、都市管理部門が急襲して、そのあたりを舗装し直し、柵で囲い、柵内を「執行亭」にした。昼に露天店主はもう挽回できないとみたが、それでもそこで騒いだ。最終的には穏便に収まった。

 もともと狭い所なのに、片側に歩道が、片側には80㎝幅の欄干があり、そちらには停車できないようになっていた。計算上は、斜め駐車すると路面の150㎝を占有するが、欄干を設ければ駐車できなくなるので、80㎝幅の欄干を設ければ違法駐車できないので路面は70㎝広く使える。やむを得ない次善の策で、一種精神上の勝利とでも言えようか。この通りでは都市管理部門と道を占有した露店主、無許可経営者、不衛生経営者との争い発生する可能性が極めて高いが、この十年来実際にはそんな争いは発生していない。争いではこの通りをよくすることはできない。このことは双方分かっていて、できるだけ相互に理解、相互にいたわりあっている。

 店先や露店はどれも街を耐えらぬほど汚している。通りにはたくさんの理髪店、カメラ屋、ランドリー、コピー屋がある。また喫茶店、眼鏡屋、生花店、不動産屋、手作り靴皮靴屋もある。それらは住民にとって便利でありしかも環境に対し悪影響はない。私は2軒のコピー屋によく行く、その店主は農村から来ている。彼らの店の家賃は月56千元で、聞くところによれば毎年の純収入は5,6万元である。

 そんなにも多くの人を養っている通り!家主も借主も年5,6万の収入があり、両方とも街の底辺、農村から来た同胞である。これが一番大事なことである。

 ある街角に一人の法を守らないおばさんがいる、ほとんど毎日1㎡ばかりの露店でシエンヤーダンを売っている。1年4季、暑さ寒さにかかわらず十年余ここで頑張っている。

 い日いくら儲かるのだろう?

その程度の収入でもどうしても必要というのでなければ、70歳強にもなって続けようと言う気になるだろうか?

 

そのおばさんの向かいには東北の農村から来た娘が昨年冬からその街かどで粥を売っている、トオモロコシが新鮮でとてもおいしい。彼女は1㎡ばかりの歩道を占拠しているだけである。道を占拠しての営業は違法であるが、彼女の言うところでは毎月4,5千元稼げるらしい。トオモロコシは自家製で、運賃を除けばほとんどコストがかからないので。

 彼女はかつて私にこう言った「私は27になったがまだ結婚していない、私の相手は貧しく、私がここにきて金を稼がないと家が立てられない、こうする以外どうしたらいいの?」

 更に十数歩歩くと農家の主婦が三輪車で豆乳、豆腐を売ってもう十余年になる。かたわらには棚付の車でシャオピンを売っている夫婦がいる。亭主が作り女房が売る、この通りの商売人と同じだ。学校の夏休み冬休みには両家とも小学生の女の子が来て大人の生計を支えている。灼熱の日には小さな顔は日に焼けて真っ黒、寒い冬には小さな手は腫れてポンポン。二人の女の子は早くから世の中にもまれた顔をしている。

ある時その一人に聞いてみた「二人は前からの知り合いだから、一緒に遊ぶんだろ?」

その答えは意外にも「暇がないの、それに話す気になれないの」

それを聞いて心が痛んだ。

五一節前に、その街角によそから50歳くらいの男が現れた。彼は、シエンヤーダン売りと靴の敷物売りの間の一尺くらいの幅を占有してそこにしゃがみ込み、木箱に硬い海綿を取り付けそこにキラキラ鮮やかに光る風鈴を56個刺して売っていた。彼が気になったのは、コストが安くて売っても大した金にもならないものを売っているからだけでなく、右手にもともと白なのに黒く汚れた安い軍手をはめていたからだ。

私は心中思った、よそ者の男や、北京で生計をたてられる、この通りで人は食っていけるが、風鈴を売ってもお前は一日分の飯代も稼げないぞ。おまえ頭おかしいんじゃないの?そんな仕事じゃ食えないぞ、そんなところにしゃがんで風鈴なんぞ売ってなんかおれないぞ。1回、2回、3回、4回と狩ればおばさんの間にしゃがんでいるのを見たが、5月が過ぎると彼は消えた。

靴底敷きを買うときおばさんに聞いた「風鈴はよく売れるの?」

おばさん「いいものか、ひと月たつのに数個売っただけ。11元でこの敷物より5角も安い」

 シエンヤーダン売りのおばさんが続けて「彼は農村で働いていた時、片腕を失って、右手は義手だ。かわいそうと思うが、私たち二人も彼に割り込んできてほしくはない......

 私はしばらく言葉に詰まった。

 シエンヤーダン売りのおばさんは言った、本当のところ一月にどれだけのシエンヤーダンも売れず、たった5,6百元稼げるだけだ。しかもその半分が手元に残るだけだ、農村にいる親戚が鴨を飼って鴨の卵を送ってきて、彼女が塩漬けし売る。

 「娘たちの稼ぎは少ないのに、今学校に行く費用が高く、しかも私のように働いたことのない人間には年金はない」---彼女は隣の靴底敷き売りおばさんを指し「毎月孫にやる小遣いを稼げればいい、娘たちはただで私の面倒を見てくれはしない」

 靴底敷き売りのおばさんもそうだと言うようにうなずいた。

 私は思わず豆製品売りとシャオピン売りを思い出した。彼らの女の子は親を助けて稼いでいる。父母は普通働いていて小さな女の子は毎月小遣いがいる。街の子特に北京の小さな女の子はよその農村の小さな女の子とは大差がある。

 私の最近は癇癪は意外にもおさまっている。私は一日一日年々歳々この通りに学び、徐々に私の怒りやすい性格とこの通りとは全く相いれないことがわかった。腹立たしいことに出会ったら、怒りを抑えられ、うまく取り持つ。それもおっくうなら見なかったことにして踵を返す。

 その通りでは私の罵り声は少なくなったが、状況は悪化しなかった。何回か私が大声で罵ったが状況はよくはならなかった、それと同じだ。

 多くの人が私と同じようにおとなしくなった。

 ある時かつてタンク車で通りを押しつぶしたいと言った人にあった。

私が「我々のこの通りは法の下にあると思いますか?」と言うと

彼は苦笑いして言った「どんな法律で治められるのだ? 相互理解万歳、いたわりと調和だよ」

 彼の話で私は突然十年来緊張感あふれるこの通りが、なんとなく作り出している品格、人と人のいたわりに気がついた。いわゆる調和、しかしこの通りではまずがまんだ。

 

 同胞の生計、生活、生存の苦しみ、この通りにはっきり表れている。この通りにも小学校がある、レンガの塀に囲まれ---

そこに陶行知の胸像と「愛満天下」の4文字がはめ込まれている。塀の根元の背の低い冬青の草むらは汚れて葉にはいつも痰がへばりついている。行知先生は終日塀の上からこの街を見ている、私はいつも彼のまなざしはだんだん憂鬱になってきているが、しかし穏やかになっていると感じる。

 

 時に緊張したが、この十年余、血を見るような暴力衝突もなく、ここ街の品格には全く感服させられる。

 

 この通りで起こった疎ましいことは、よく考えると結局は容認できるものだ。

 中国で起こっている疎ましいことは、しかし「容認」の2字で軽々しく対応できない。

 

之于未有,治之于未乱まだ問題がなんでもない間にことを処理し、混乱しないうちに収拾しなさい」老子のこの言葉はどんな言葉にも勝る!

 

2011/7/13

 

(訳注 Wikiと百度百科から)

陶行知 とうぎょうちYao Hang-zhi[]1891. 安徽[]1946

中国の教育家南京の金陵大学を卒業,1914年アメリカに留学。都市政策を学ぶが,のちコロンビア大学でモンローデューイらに師事し教育学を修める。 16年帰国し,南京高等師範学校教授となり,プラグマティズム教育学の紹介と導入に努めたが辞職。平民教育運動にたずさわり,郷村師範学校建設に尽力した。 1927年,南京郊外に暁荘師範学校を設立,徹底した経験主義的な教育を行う。また,上海郊外にも山海工学団を開設して「小先生」の方法を提唱,実施した。日中戦争中は国難教育社を組織して抗日教育運動を進めた。

之于未有,治之于未乱

典出:《老子》。

原文:其安易持,其未兆易;其脆易泮,其微易散。之于未有,治之于未乱。合抱之木生于毫末;九之台,起于累土千里之行,始于足下。

释义:做事,要在尚未生以前就着手;治理国政,要在乱没有生以前,就早做准

 


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