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譴責だけでは済まない 中国の子供患者遺棄事件と医療弱者救済 [中国語学習]

譴責だけでは済まない 中国の子供患者遺棄事件と医療弱者救済

出典 梁暁声2017中国人的人性与人生 仅仅谴责是不够的 P103-107

  医療費を払えない貧しい庶民は、メディアに泣きつけ!

  そんな弱者のために慈善基金をつくれ!

  メディアは人道報道を!病院は医療道徳をまもれ!

このような主張。この背景には、発展途上の医療保険制度の問題がある。

背景:中国の公的医療保険 2016年、都市ごとに、村ごとに異なる。

■都市部の就業者 (保険料率は賃金の810数%。うち本人負担は2%、他は雇用主)

■都市部の就業していない人(保険料は年数百元程度)

■農村戸籍者向け(保険料は年百元弱)

制度は試行錯誤しつつ充実しつつあるが、雇用主が保険料を支払っていない、本人が保険料払えず、保険者になれずに全額自己負担となって、医療費が払えないために治療を諦めるケースが続出している。

医療費の保険金は全く社会主義的なものではない。

 医療費が最低金額Minまでは自己負担、

 最高金額Max以上は自己負担(ある金額以上は保険金でるという日本のような甘い制度ではない)

 Min-Maxの間は例えば保険金50%

 薬は指定薬以外は自己負担

 参考記事:中国の診察料、標準費用はあるのか?病院によって異なる費用!

病院GUAHAO.jpg

 以下はたどたどしい訳文

 

わずか三歳の男の子が父親により国立病院に遺棄された。その男の子は白血病、身内は法律上の扶養義務ある父親であるが、子供の医療費を負担する能力がない。病院の説明では、子供の生命維持に毎日最低3百元必要。子供の命を維持するには骨髄移植が必要で少なくとも三十万元がいる。

 子供の父親は農民である。中国では、普通の農民がそのような高額医療費を負担できないは周知の事実である。身体強固建康な身内十人が毎月一回血を売りでもすれば十年後にようやく三十万元貯められる。しかし十年間毎日三百元の医療費はどこから来るのか?農民の子供のために順番に献血する身内はどれだけいるだろう?

 その父親はすでに破産同然でおろおろするばかりだ。彼を調査した人物でさえTVのカメラに向かって「彼は譴責されるべきだが、実情を見ると我々も同情を禁じ得ない」と言っている。中国では似たような状況が沢山発生している。今後増加することも考えられる。

 このような事件を単に何か肉親の情、倫理的な現象としてではなく明らかな社会問題と認識すべきであり、肉親の情、倫理の面からの譴責だけでは不十分であると考える。

 TVは、厳粛、むしろ緊迫した表情の病院のスポークスマンにインタービューしていた。私の記憶に間違いがなければ、それは共青年会の書記であった。彼はこのような話をした:「なんということだ、まさかこんな方法で社会に押し付けようとは?」私は彼の見解にまったく賛同できない。

 私は彼の見方に対し率直に言わないではおれない。私はこの種の出来事にこのように対応する人に強い反感を覚えるから。

 はっきりしているのは自分の息子の命を救おうとしても、自分の経済能力では救えない、明らかに一種の貧困現象で、明らかに全社会が注目すべき社会問題であるのに、それをどうして「社会に押し付ける」と言わなければならないのだろうか?

 「社会に押し付ける」この言葉は重い!事をこのように扱うと言うことは、社会問題的性格の現象を直接政治問題的現象に持ち上げてしまうのではないか?

 「社会に押し付ける」これはこのような出来事は皆社会を脅かす行為だと言っているのと同じだ!

  幸いにもこれは共青年会の書記だけの考えで、仮にももっと職位の高い人にこのような考えがあれば調和のとれた社会建設に有害無益な思想である。

当然私もその父親のやり方に賛成はできない。本件が報道されるや、すぐに善良な人たちが義捐金三十万余円を出したのではないか?もう一度言うと、私たちの社会で、特に民間において、無数の民衆の心に、互助精神がしっかり根をおろし、出てくる反応がとても速く、表わされる真心はとても貴重で、だからこそ感動的なのだ。

 これは、不幸にも自分ひとりではどうすることもできない人への啓示である、即ちもしどこにも助けを求めるところがないのなら、できるだけ早くメディアに助けを求めるべきだ。遺棄するのは理性的ではなく、かつ唯一の方法でもない。

 これはメディアに対する啓示でもある。メディアは単に客観的キャリアではなく、時に主観的キャリアでなければならない。主観だからこそ感動を呼べるのだ。つまりメディアは人間性を備えた社会公器でなければならない、さもなければメディアが社会の良知を担う義務という自覚すべき前提がなくなる。中国ではメディアは、なすべもない弱いものの為に、出来うる限り、義により大声を上げることが、メディア報道の最大の意義の一つで、これは絶対に小さくはない。メディアにとって、やたら主観的に飽きもせずあそこは何星級、こちらは何星級と知名度を争うのに比べ、義により立ち向かうことの意義はとても大きい。メディアがこのような義務を担うのはとても貴重だ。本件の報道の中で、関連したメディアの報内容はとてもよかった、ただぶちまけるだけでなく、人間的なものだった。人間味ある報道でありさえすれば民間の互助精神を喚起するのに役に立つ。

このことによる病院への啓示は:私が先にその病院について述べたとき、「国立」という二字を使った。これは「私立」と対比した言い方だ。私は、学校、病院、は特殊な組織と思う、もし公共的性格を備えているなら、同時に国立の品格を備えていなければならない。「国立」病院の品格とは何か?いつも人道主義を旨とすることだ。庶民はこの原則でもって、国に対し当然の評価をししなければならない。大きくても小さくても、省市一級であれ、農村の一級であれ、国立なら皆国家精神で、つまりもし私立病院が傷病者にお金第一で対応するなら、庶民はその経営者を見下げるだろう。もし国立病院がそうなら、国のイメージを損なうだろう。

 今回病院の反応や態度は良好だった。医者看護師の反応や態度も良好だった。白血病患者の子供が病院に遺棄されたからと言って、だれも彼の医療費を負担しなかったが、病院は必要な治療をした。まさしく国立病院が人道主義を旨とする面でとてもうまく機能し、指弾されるものなく、庶民が手を差し伸べるタイミングも良く、とても積極的だった。ここにおいて国家精神と庶民意識うまく呼応した。 

 しかし近年ある病院、国立病院でさえ、その処置に庶民をあっと驚かせるものがある、憤慨以外ほかのどんないい感情も起きない問題外の行動だ。その種の病院でこのようなことがあった時の第一の反応は、当病院は本当に運が悪い、金なしで看病なんて、そんなことできるところはない。人命が大事というのは病人個人のこと! 病院でそんな病人を治療しそれで損したら私の責任だ!私のこの責任をだれが面倒見てくれるんだ?彼らの第一の反応は完全に病院の人道主義に反していて、彼らが救急治療が必要な病人を病院から運びだしどこかに投げるなどのほか、全く善良と言えない行為がある。報道では曾てある病院では葬儀屋に生きたまま火葬させたと言う劣悪な事件もあり、これはすべて極端に非人道的心理のなせる業である。このような「国立」病院の劣悪な行為は庶民の国家精神に対する大きな疑義を生む。国家のイメージが大いに損なわれる。これは金では贖えない。

  このことは国家即ち政府への啓示である:いかなる病院、規模の大小を問わず、国家に代わり無料で愛情を持って一手に弱い庶民の命を救うのは不可能だ。中国は13億の人口があり弱い人の数は億にもなり、一本、数本のろうそくが百千万の人を照らせるだろうか?医療保険もいいがしかし既に不幸にも弱者となっているなら、その保険費も納められない。遥かに帆の見える舟、目の前の深い波の中の人をだれが助られようか?民生部門?我々はみんな知っている、中国では民生部門は災害救助活動期間の職能しかなく、国は毎年充分な救助費も出せないでいることを知っている。中華慈善総会は?彼らには苦労して集めたお金があるが、中国の膨大な弱者には焼け石に水であることも知っている。その支部は、省一級に設置されているが、そして沢山の省に設置されているが見かけだけだ。

 それなら、どうしようもないのか?当然方法はある。さらに国がやることやらないことを決めれば。即ち経済能力のある公用、私企業をたきつけその納税額比例で、1/100から5/100の割合で積み立てる会社あるいは企業名の慈善基金を作る。この基金は当然免税とする。 千本の川が海に流れ込むような慈善では、せいぜい義捐募金方式で集める「計画経済」「統一買付統一販売」のような政策が精一杯で、弱者が病を見くびり医療に頼れない厳しい現実には合わないことは立証済みだ。慈善は社会全体のことで、どうして社会全体がするのを歓迎しないわけはない。

慈善の看板の下で合法的な脱税する人が出るのを心配するのに対しては、私はあまりにも小さなことにこだわって大義を見失っていると思う。中国はたくさんの中国特有の複雑なことを管理する能力があり、たったこれだけのことができないわけがない。各級の民政部門に慈善基金を名乗る組織が毎年慈善救助に使っているかどうか検査させる、民政部門の職能がしっかりと動員されるだろう。

 

更に経験的な社会学の真相二点、その一つ文明社会の文明企業と文明素養ある企業家、双方ともに自ら社会から高尚であると認めてもらいたがっている。慈善事業がそうだ。ただ彼ら双方を大口慈善義捐家とみなし、金出すあなた、受け取る私というような簡単な考え方は企業の人間重視、人間性高尚化社会発展の規律と相いれない。このままいけば、この規律は漠然としたままで、企業が真に人間重視とはならず、人間性の高尚化は期待できない。私と同じように慈善問題を進んで考えるみなさん、ある大きなレストランで一卓198万元の前売りは売り切れという報道を読んでみてください、考えさせられのではないでしょうか?もう一つは、メディアがうまく悲劇を報道しさえすれば庶民の善良な気持が簡単に動かされる、このような認識は完全間違いだ。

 そうではない、社会の真相はそうではない。慈善は単に庶民のことではない。庶民の人道精神は国家の人道精神に主導され、庶民の憐みの心は国家の憐みの心で引き立てられなければならない。


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