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北京のある通りのGDP現象 [中国語学習]

一条小街的GDP现象

ある通りのGDP現象

梁晓声 (2017) 中国人的人性与人生 現代出版社 P63一条小街GDP现象

GDP.png GDP推移

 

私の住んでいる通りの向かいは店舗が軒を連ね隙間もないほどだ。通りの端から端までそんな状態だ。

15年前その通りの片側に建物群(マンション)が建ち売り出された、平方当り6400元だった。私が引っ越してきた当時、通りの向かいは20世紀80年代中後期に建てられた平べったい56階建てが何棟もあった。その窓はその街に面し、入口は裏側で、各建物の窓側には高さ1mの鉄柵がめぐらされていた。その当時通りと歩道は同じ高さで、両者の境界ははっきりしなかった。当時タクシーはそこまで入ってきたし、通りの両側を自家用車が長時間占有しているようなことはなかった。私たちのその地区には地下車庫があり、空いていることが多く、不動産屋はマンションの持ち主に地下駐車場を借りるか買ってほしいと考えていた。しかし地上の駐車場は賃貸料が安く、先を見て地下駐車場を買う人は少なかった。

当時通り両側には老木がたくさん植わっていて、静かだが、物を買うのは不便だった。

その後、何時のころからかはっきりしないが、だいたい三四年後だろうか、通りに一群の建物群(マンション)が建ち、平方当たり1万強にもかかわらず飛ぶように売れた。通りの人口は数倍になり人口密度が高くなった。それに伴い、通りの向かいの鉄柵は取り払われ、その一階の住人が部屋を住民以外に貸し店舗になった。

当時私は海淀区の地区代表で、将来の状況を予測し、関係部門にこの種の商用賃貸を制限するよう提案した。

しかしどういうわけかこの提案は採用されなかった。

それから僅か1年後一階はすべて店舗になった。近隣の三か所の高層建物群(マンション)からなる地区の入居率は100%になり、各区域で駐車場が足りなくなった。各区域や通りで駐車場のことで諍いが絶えず、夜中になってもどこからかののしり声、泣きわめく声、たすけを求める声が響きわたっていた。

2005年頃には、三環と四環の間にあるその通りは北京で最も汚い所の一つとなった。朝晩車の渋滞が当たり前になり、炎天下には悪臭が漂い、雨が降れば足元には真っ黒な水や油があふれていた。もし靴や靴下が濡れたら、石鹸で洗っても脂っこい足はきれいにならなかった。

私は「緊綳的小街」に当時のその通りの状況を書いた。

秀水市場.jpg

こみあう露店街

今、具体的に言えば十八大後、通りの状況はかなり良くなった。いくつかの古い建物は更新され、保温層が追加され、通りも2回舗装され、左右共に歩道ができた。老木は減り、年々新しい木が高く伸びている。

その通りの乱雑な所の改良工事費用は、当時各方面から集めたお金と税金の合計よりはるかに多かったと思う。当時中国のある地方の「野蛮な発展」と同じでその後それ以上の労力、物量とお金で処理せざるを得なかった。しかし少しでも管理を緩めると元のもくあみになった。実際その通りの半分はすでに元に戻ってしまった。

その当時の不動産価格は平方当たり6万元、一部屋120平方の三居室の仲介業者の標準価格は約750万元だった。簡単に売れたことから、購入者は大半が外部の人だった。三か所の高層住宅地区の住人の2/3は外部、1/3はここの人や戻ってきた人。しかし見たところ7-80%は外部の人だ。

北京のどこかかしこの通りのように、この通りの両側は朝から晩まで車でいっぱいだ。往々にして右側あるいは左側には2列縦隊駐車もある。幸いにも通りは一方通行になっているのが、それに従わない車がいて往々にしてふんづまりになることがある。

通りには店舗が多く、居住民にとっては買い物便利という利点がある。買い物便利というのは生活の重要な条件だ。ともに便利さ、安さを追求した貸し手借り手でもある住民はある一時期利益を得た。2003年当時のここの店の年間賃貸料は1.8-2万元で、外部の人が借りることで、貸主の生計を助けた、ある人はこのちょっとした商売で田舎に家を建てるか村に家を買った、そのようにして家賃が貸主の生活水準向上につながったことは言うまでもない。たまたま市が道路の野菜などの露店を駆逐した時、住民中のおばさん連中が怒り、小売りに味方した。彼らは安く便利でありさえすればよかった。それで通りがこんなも乱雑になった。

幸いなことに住民の主要部分は彼女たちだけではない。そうでなければ管理が民意に従うかどうか

いま小店の家賃は年10-12万元に、電気代5角は1.54元に値上がりした。

もちろん通りの店や、奥のスーパーのものもすべてつれて値上がりした。もし収入が増えなければ実際の生活水準は下がったと言える。

烧饼シャオピンは5角から1元。

煎饼卷2元から3,5,6元に。

油饼1元から2元に、或いは25角に(甘いもの)

おかず類の値上がりはあきらか

理髪は15元が20或いは25元、優待券使って20元か25元。

いくつかの店は行き詰った、マッサージ屋、洗濯屋、軽食菓子屋、雑貨屋などが店を閉めた。

少数向け或いは日常消費物資でないものを扱う店は基本的に永続きしなかった。しかし食堂、八百屋はしっかりと根を張っている。およそ食べると言う字にかかわる商売は、家賃高騰の負の面の影響を受けていない。床屋もそうだ。男性は一月に一回、女性は多くて年に2回なので、理髪店の値上がりには十分納得できる。しかしクリーニング店に対してはこうはいかない。クリーニング一件が当時の20元から今30-35元になったら多くの人は自宅の洗濯機で洗いたくなる。

やめたい人はどうぞ、大家には少しも危機感はない。やめて出ていくと数日後にはまた借り手が現れ、家賃が少し上がるのが普通だ。新しい借り手は大抵食べ物屋か、「(食べ物)に関連したものの店だ。

 通りの「」経済は一貫して盛んで、まさに民は食を以て天と為すだ

通りの両端にコピー屋、東の店はスピード写真、西はプラスティックや防水紙製の材料への看板印刷も兼業している、東は影響が少ないが、西は広告制作2015年比で1/3減っている。看板はすべて店舗需要なので、新規開業が理髪店ではなく食料品にかかわらない店だけとすれば、看板製作店の苦境は続くだろう。

秀水露店.jpg

 近くの翠微のような比較的大きな商店街でも似た状況だ。毎日店が開くとお客が殺到するが、2時間もするとお客が多いのは一階の食品街だけで、残りの宝飾化粧品売り場は極めて静かである。

 服売り場の2階、家電売り場の3階はお客の姿が見えず、販売員は手持ちぶさただ。この2,3年こんな状況だ。

 食べる、遊ぶ(旅行を含む)、次代養育費、自分の健康維持費用(医療費を含む)、 基本的に国民のこの四項目の消費が内需を牽引している。

 不動産と自動車産業もGDPを牽引するがこれは両刃の剣で、時に一時しのぎであることは多言を要しない。

 「広場舞」現象は、歌踊りの天下太平現象ではなく、下層民衆の心理的天下太平危機現象で、金をかけない健康維持方法である。

  映画興行収入が近年急速に増加している、これは娯楽消費を惜しまない風潮の現れか。

 海外旅行する中国人がよく海外で爆買い団と化していることに対し、愛国人を驚かせ大議論になっている、金持ちはなぜ国内で金を使わないのかと指弾。実際、中国人が国外で金を惜しまず消費するのは、外国品は高品質であるほか、国内品はコストパフォーマンスが悪い、さらに思う存分遊んだかどうかという心理が彼らを支配している。外国で何回か思いきり消費することで、そこでかっこよく遊んだ満足感が得られる。

 当然上述の「四項目基本内容」国家内需に貢献してもそれだけでは十分ではない。

何に頼ればいいのか?

私も思い浮かばない

人類社会の経済発展史を通して、大多数の国家の内需GDPはその実この「四項目基本内容」による。

先進国と発展国、後進国を比べると、差がある、前者は外国人による消費を画策し、うまくいっている。対するに後者は一時上手くいっても長続きしない。

ゆえに前者においては輸出外貨獲得がGDP増加の主要部で、内需は最低保証だ。

中国の輸出外貨獲得の黄金期は過ぎ去り、「今度はいつ来る」かわからず、すぐに来るとは思えない。

中国も内需をひっぱり出し、それで最低保障にする時代になったのだ。

いまおしなべて中国人の内需品質は全体として上述のようにとても低いが、幸いにも14億近くの人口で、これはとてつもなく多く、GDP増加の底部をある時期支えるのは問題ではないだろう。

我々の中国経済発展はこのような段階に来てしまった、それは早すぎる成長をどう抑制するかではなく、経済失速をいかに食い止めるかである。

もしこれから先三四年、我が国GDP増加指数が6%以下になっても私は驚かない。もし六七年後に徐々に5%に落ちても、長期安定していればがっかりしない。

これは世界経済発展史上特に重視すべき現象だからである。

私たち中国は高度成長の心地よさから目覚め、気持ちを切り替え、冷静にこの経済成長速度低下の事実に向き合い、できるだけこの速度低下を比較的長期にわたって安全な範囲に留めなければならない。

これが私の「新常態」の先走った解釈だが、自身少しも先走っているとは考えていない。

私たち中国の経済総量がアメリカを追い抜く目標がいつ実現するかというような考えはとりあえず保留しておこう。

比べて、追いつく、超えるなどのつく目標はいいが、しかし遠大な目標は保留し、現実の国民の問題を着実に解決するのが賢明だ。

 


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北京のつっぱった通り [中国語学習]

つっぱった通り

紧绷的小 声:

http://www.wenming.cn/qmyd_pd/sz/201108/t20110803_269387.shtml?COLLCC=2443472059&

これは 一条通り的GDP现象(ある通りのGDP現象)梁晓声 (2017) 中国人的人性与人生 現代出版社 P63一条通り的GDP现象 の中で引用された文章である。

 紧绷的小街res02_attpic_brief.jpg

私が「我々のこの通りは法の下にあると思いますか?」と言うと

彼は苦笑いして言った「どんな法律で治められるのだ? 相互理解万歳、いたわりと調和だよ」

 彼の話で私は突然十年来緊張感あふれるつっぱったこの通りが、なんとなくかもし出している品格、人と人のいたわりに気がついた。いわゆる調和、しかしこの通りではまずがまんだ。

これまで私は北京の三ヶ所に住んだことがある。

 最初は昔の北京映画製作所:1977年から12年間長屋に住んだ。往々にして丸一週間そこから出ないで、昼夜、家、食堂、編集室事務棟の間を往復するだけで、まるで大学生活だった。長屋を出て30秒で食堂、食堂から事務棟まで56分で、現在の出勤退勤に3時間もかかるのに比べれば、仕事場がそんなに近いのはとてもよかった。

 1988年末、中国児童映画製作所に変わり、次の都市その宿舎に移った。その通りの長さは北京映画製作所の表門から裏門にもおよばないほど狭く、片側は昔の大都の土壁だった。その頃はその壁には雑草が生え荒れ野の様相だった。通りの突き当りはある参謀本部の幹部保養所、所謂「死胡同」で、車は通れなかった。当時は車を持っている人は数えるほどでその通りに出入りする車は、タクシーを除けば幹部保養所の車だけだった。当時はタクシーに乗るのは豪奢なことで、その通りには北京映画製作所に住む大監督大役者が歩いたり、自転車に乗ったり、電動三輪車にのっている姿があった。車の後ろには連れ合いを載せていた。それぞれみな中国映画史上の重鎮だった。当時の北京映画製作所の裏門は直したばかりで通りは静かであった。

 通りは徐々に露店が増え商店街になった。ほとんど何でも売っていた。ほかの所では見かけないものも買えた。私はこの通りで野生の蜂の巣を買ったことがある。友人は人造だと、すなわちシロップにサッカリンを加えさらに凝固剤を入れて型に流し込んで作ると言っていたが、作り方は簡単なのに「野生の蜂の巣」はとてもよくできていた。また長さ一尺のトカゲも買った。売っていた人は焼酎に生きたままつければ滋養強壮剤になると言っていた。私は酒のにおいをかいだだけで酔っぱらってしまうので、鑑賞用に飼って、そのうち生きたまま放してやった。私はそこの商店街で理髪したことがある。30分二十元で按摩してもらったこともある。按摩の男はしつこくシャツを脱ぐよう言ったので、逆らわず脱ぐと周りの注目の的になった。また輸出用だと言う純綿のシャツ3枚を十元で買ったこともある。

 また私の名前写真の入りの海賊版56冊を買ったこともある。そのうち1冊は「愛と恨みの交織」という書名だったが、私が書いた本ではなかった。当時私はシャツを着て、ショートパンツをはき、壊れたスリッパを履いて頭はてかてかで、何日もひげ剃らず、露店にしゃがんで、その厚い本を見ながら、言った「この本は偽物だ」。

 よそ者らしい売人の若者は睨みつけながら突っかかってきた「本が偽物だって?、偽物をずっと見てるじゃないか?買うのか買わないのか?」

 私は、私が梁暁声で、こんな本書いたことないと言った。

彼は、見たところお前こそ偽物と言った。

そばにいた私の知り合いは中国には梁暁声が何人かいるが、こいつが作家の梁暁声だと言った。

若者はその本を取り上げると地面に並べた本の中にぽんと放って、まさか全中国で梁暁声と名乗るお前だけが作家というわけではあるまいと言った。

私はその本を記念に買う気になった。若者はさっき言ったことは嘘で、一銭も値引かない、好きにしろと言った。彼ののりに逆らわらず買った。私がマンションの入り口にいると、若者が若い娘を連れて、カメラを持って追いかけてきた。若者はその娘は彼の嫁といい、さらにあなたが本当の梁暁声なら、俺たち二人は縁があるんだ、おじさん、記念に一緒に写真を撮ろうと言った。そんなに誠意ある言葉を断れるわけがない。折よく来た人に頼み、私を中央に、若い夫婦を両脇に、夫婦が私の腕を掴んで写真を撮った。

北京朝陽区.jpg

その通りが汚くなったのはまず食べ物を作って売る露店---煎餅、揚げパン、各種粥、炒肝、春巻、ワンタン、串焼きの露店、さらに鶏鴨をつぶし、魚をひらく店・・・朝市が終わると、通りは散らかり放題、歩道と路面は油でべたべた、歩くと靴底にねばりついた。雨が降れば一面鍋を洗った水に覆われ、黒い水に腐った野菜の葉が漂い、時折油が浮いていた。

 私はその通りで3回ケンカしたことがある。2回は大人の喧嘩で手は出さなかった。3回目は相手にビンタを食らわせた、但し私がやったのではなく、児童映画の青年監督孫誠が私に代わって殴った。その頃の通りは朝67時から910時まで混みあっていてまるで休日の縁日みたいだった。たとえネズミでも通り抜けられなかっただろう。ある朝、私が家にいると車のクラクションが鳴りっぱなし鳴って、窓から見るとタクシーの前に自転車が横たえてあって、自転車の両側には、30歳くらいで、きちんとした身なりの男女一人がいた。タクシーの後ろには引越し屋の大型車がいた。2台が塞いでいて人が通るのが精一杯だった。

 私は下に降りて自転車の持ち主に自転車をまっすぐにするよう頼んだ。

 その人は目を剥き「余計なことに口出しするな!」

 タクシーの運転手に事情を聞いた、自転車にぶつけたの?

 運転手はそんたことはないと言い、なぜじゃましているのかわからないと言った。

 女は罵った「とぼけるな、お前はクラクションを鳴らし続けたのでむしゃくしゃしてるんだ。朝市から出さないぞ」

 私はそれを聞いて頭にきて、自転車をどけタクシーを通そうとした。男は私を遮り、また自転車を横たえた。そんなことを3回繰り返し、男は自転車から鎖をとり私に振り上げてきた。

 その時、その男の頬をパチッとたたいた。誰がたたいたのか見るまもなくまたパチッという音が聞こえた。

 私がたたいたのが孫誠だと気付いた時には、男はおとなしく自転車を押していき、女も一緒に行き、振り返りもしなかった。

 私は今もその男女がどうしてそんなことをしたのかわからない。

2年後この「自由市場」は取締りにあった。軍幹部保養所が軍部を通して働きかけたらしい。

  今私は牡丹園北に十数年住んでいる、その通りも最初は静かだったが今商店街になり、タクシーの運転手が行くのを嫌がるところになってしまった。そこも十数年前に住んでいたあの通りと同じようになった。蒸し暑い夏、空気中には腐ったような臭い、路面は二度舗装したが、すぐに靴底は粘つく。雨が降れば、鍋を洗った水のようになる。ちょうど解放前金持ちの家の溝に注ぎ込まれた油臭い鍋洗い水のようで、路面の何か所は脂ぎった層が幾重にもなっていてスコップで一層づつ掘り起こせるほどだ。歩道は名ばかりで、何軒もの露店に占拠されている。昔と違うのは、道の両側にぎっしりと安い車が止めてあることだ、時折高級車もあるが。

 早朝7時ころ「商業活動」開始、あたり一面揚げ物油臭が漂い、サラリーマンがせわしく行きかい、食べながらの人もいる。朝食を買った年寄りがゆったりと歩き、タクシーや自家用車が、年寄りたちがよろよろ歩くのを我慢強く待っている。8時ごろには通りは乱雑を極め、人出は多くなり、車も増える。いま安い中古車は1,2万元くらいなので、間口を借り小さな店を開いているよそものの店主の半分以上は車を持っていて、早朝は商品運びに忙しい。太平庄などの「国美」ショッピングモールの無料送迎バスが通りを走り回っており、小型車2台がやっとの道幅に、「国美」の大型バスが出くわすと方向転換する余地もなく30分や1時間の渋滞はいつものことだ、タクシーも自家用車の運転手も内心この大型車に嫌気がさしているが、無料なので、年寄りが喜んでいるのをみて我慢している。大型バスに座っている人も乗ろうとしている老人も往々にして疎ましげにタクシーや自家用車を眺める、明らかにタクシーや自家用車が悪いのだとばかりに。

 

 夕方は朝よりもっとひどい。6時ころには小さな店のテーブルや椅子が歩道上まではみ出して並べられ、歩道はまるでその店の一部のよう。歩道がいっぱいになると道にはみ出す。焼肉、海鮮焼き、トオモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ焼きなどが出される。時代とともに食べ方も新たに。通りには焼きナス、焼きピーマン、焼きかりんの露店も現れた。最も流行っているのは海鮮の店で、毎晩歩道に20数卓並べ、意外にもBMWやアウディに乗ってきておいしそうに食べる男女もいて、往々にして深夜までいる。そんな男のうちにはシャツを脱ぎ裸になって汗だらけになり、大声でさいころをふったり、賭けたり、傍若無人だ。黒い煙と有害な空気の中で、歩行者は車を運転する人を嫌い、運転者は露店を開く人を嫌い、露天商は間口を借りた店主を嫌い、店を開いた人は大家を嫌う---家賃は値上がりし、道を占拠した店は間口を広げて稼ぐ人が多くなった。インフレのために北京に出てきて働く人のコストが非常に高くなった。たくさん稼がなかったらどうしたらいいのだ。もともとの住民はこれらのよそ者が嫌いだ。もともとこの通りはあんなに静かだったのに、いまよそ者がこの通りをどうしようと言うのだ。こうなると、この通りに住む人は皆内心同胞を嫌う……

 そしてそんな時にわざと渋滞させる車がいる!

ある時家に帰ると一台のアウディが野菜の露店の前に斜めに止まっていた。斜めにとめ路面幅の1/3を占拠し、そのため前後に34台動けなくなった車がいた。クラクションがあちこちでなっていた。車には一人の男が乗っていて、ラジオを聴き悠々と煙草を吸っていた。

私は我慢しきれず車の窓に近づき「お前耳が聞こえないのか?」

彼は煙草を投げ捨てると、しぶしぶ車をまっすぐにして渋滞は解消した。彼は野菜を買いに行った女を待っていたのだった。その頃この通りの野菜は一番安かった。それにしてもたかが安い野菜を買うために、アウディ運転してまでこの通りに来て面倒を起すものか?私たちの一部の同胞は理解に苦しむ。

その男は車を動かす前に怖い顔で聞いた「さっき誰を罵ったんだ?」

私は歩道の雑貨に手を伸ばしモップを取って、彼よりも怒りに震えて「お前に決まってるだろう、バカが!」

多分私が年寄りなのを見て、私が怒っているのを見て、しかしどんな身分か推し量りかねて、自分の行いが道理に合わぬことなのに、しかし私を罵って走り去った。

彼はわざと渋滞を起したのではないか!

しかし何のために?今に至るもわからない。

 またある時、一台の古い白のVWジェッタが町内の出入り口に横になっていて十数台の車がとじ込められ通りはまるで駐車場のようになっていて、通行人は皆車と車の隙間を、体をねじって通らなければならなかった。車にはだれもおらず、鍵がかかっていた。私を知っている人が小声で、道の反対側の歩道に、Tシャツを着てタバコを吸っている男が車の持ち主だと教えてくれた。彼はまるで覗きからくりでも見るように無茶苦茶な渋滞場面を見てせせら笑っていた。疑いもなく彼は車の持ち主だった。彼がいたずらしているのは、出入口の保安員に不快な目に合わされたからだった。

 その時私の怒りは頂点に達した。もし古代で、武術にたけていたら、間違いなく駆けつけ派手に立ち回る、何が君子だ、構うもんか。

しかし私は年を取り、闘う力や勇気がない。

 しかし罵る勇気はまだ残っている。そこで上品ぶらずそやつを睨みつけろくでなしなどとののしった。

 私の罵りは少しも役には立たなかった。問題の最終解決は交通警察の人により、しかしそれは1時間強たってからのことだった。その1時間強の間、歩道上の露店の食卓の周りの人たちは飲み食いしながら騒ぎを見ていた。あたかも渋滞と歩道占拠には何ら関係ないとばかりに。

 十余年前私がその児童映画の宿舎に住み、その通りにいた時、このように言う人がいたと聞いている、いつかみんなで金を出し合って強力な洗濯粉石鹸、数十個の金属ブラシを買い、噴水車を雇ってみんなで働いてその通りの油だらけの汚い通りを徹底的に磨きたい。

 今こんなことをいう人がいるらしい、いつかタンクを運転し通りの端から端まで押しつぶしたい。こんな通りに永く住んでいたら発狂いてしまう!

 この通りでは常に同胞間の嫌悪が引きおこされるだけなく、同胞間の憎しみが、同胞間の緊張感が発生する。めったなことで怒らせられない。誰もが弱者で、だれもが譲れない一線がある。ほとんどの人がじっと耐えて生きている、びくびくして。

 街道委員会はこの通りには無策である。取り締まる法律がないと言う。

 詩管理部門もこの通りには無策である。管理は必要だが強行してはいけないと言っている。しかし北京は模範都市なのになぜ強硬というのだ。

 報道関係者に頼んでも一度も報道されたことはない。解決できることは報道しても、この通りの現状は解決しようがない(だから報道しない)と言う。

 市長ホットラインに電話した人もいる。居住委員会の人が来て言った、簡単に解決できることは早く解決できたのではないの?耐えられないのなら思い切って引っ越したら!

 この地区の責任者の人大代表に頼んだ人もいる。しかし区政府にこの通りの状況が反映されたことはない。私の見方はこうだ、露店毎に、店毎に、その大家毎に一家の生計がかかっている、生活というより生存問題、いろいろあるがこれが最大の問題だ。

 この通りのあるところでは「都市美化管理大学」と赤字で書かれたところがある。数m離れた歩道上にはファストフードの露店がある。すぐそばに下水道口があり夏には鼻をつく臭気で吐きそうになる。

 都市管理部門は手をこまねいていたわけではない。彼らはさっと下水道口をコンクリートで蓋してしまった。結果としてそこには露店の汚い洗い水の汚水だまりができた。夜になるとそれが近くの下水道口に流れ込み、他の下水道口も鼻をつくにおいで嘔吐しそうだった。

 そこから数歩のところにかつては揚げ物露店があった。何年もたって油の鍋の上部の高圧電線には油がべっとりつき、まるで南方の農家のかまどの上にかかった何年物かのソーセージのようになっていた。柱上の変圧器は真っ黒にすすけていた。ある夜、都市管理部門が急襲して、そのあたりを舗装し直し、柵で囲い、柵内を「執行亭」にした。昼に露天店主はもう挽回できないとみたが、それでもそこで騒いだ。最終的には穏便に収まった。

 もともと狭い所なのに、片側に歩道が、片側には80㎝幅の欄干があり、そちらには停車できないようになっていた。計算上は、斜め駐車すると路面の150㎝を占有するが、欄干を設ければ駐車できなくなるので、80㎝幅の欄干を設ければ違法駐車できないので路面は70㎝広く使える。やむを得ない次善の策で、一種精神上の勝利とでも言えようか。この通りでは都市管理部門と道を占有した露店主、無許可経営者、不衛生経営者との争い発生する可能性が極めて高いが、この十年来実際にはそんな争いは発生していない。争いではこの通りをよくすることはできない。このことは双方分かっていて、できるだけ相互に理解、相互にいたわりあっている。

 店先や露店はどれも街を耐えらぬほど汚している。通りにはたくさんの理髪店、カメラ屋、ランドリー、コピー屋がある。また喫茶店、眼鏡屋、生花店、不動産屋、手作り靴皮靴屋もある。それらは住民にとって便利でありしかも環境に対し悪影響はない。私は2軒のコピー屋によく行く、その店主は農村から来ている。彼らの店の家賃は月56千元で、聞くところによれば毎年の純収入は5,6万元である。

 そんなにも多くの人を養っている通り!家主も借主も年5,6万の収入があり、両方とも街の底辺、農村から来た同胞である。これが一番大事なことである。

 ある街角に一人の法を守らないおばさんがいる、ほとんど毎日1㎡ばかりの露店でシエンヤーダンを売っている。1年4季、暑さ寒さにかかわらず十年余ここで頑張っている。

 い日いくら儲かるのだろう?

その程度の収入でもどうしても必要というのでなければ、70歳強にもなって続けようと言う気になるだろうか?

 

そのおばさんの向かいには東北の農村から来た娘が昨年冬からその街かどで粥を売っている、トオモロコシが新鮮でとてもおいしい。彼女は1㎡ばかりの歩道を占拠しているだけである。道を占拠しての営業は違法であるが、彼女の言うところでは毎月4,5千元稼げるらしい。トオモロコシは自家製で、運賃を除けばほとんどコストがかからないので。

 彼女はかつて私にこう言った「私は27になったがまだ結婚していない、私の相手は貧しく、私がここにきて金を稼がないと家が立てられない、こうする以外どうしたらいいの?」

 更に十数歩歩くと農家の主婦が三輪車で豆乳、豆腐を売ってもう十余年になる。かたわらには棚付の車でシャオピンを売っている夫婦がいる。亭主が作り女房が売る、この通りの商売人と同じだ。学校の夏休み冬休みには両家とも小学生の女の子が来て大人の生計を支えている。灼熱の日には小さな顔は日に焼けて真っ黒、寒い冬には小さな手は腫れてポンポン。二人の女の子は早くから世の中にもまれた顔をしている。

ある時その一人に聞いてみた「二人は前からの知り合いだから、一緒に遊ぶんだろ?」

その答えは意外にも「暇がないの、それに話す気になれないの」

それを聞いて心が痛んだ。

五一節前に、その街角によそから50歳くらいの男が現れた。彼は、シエンヤーダン売りと靴の敷物売りの間の一尺くらいの幅を占有してそこにしゃがみ込み、木箱に硬い海綿を取り付けそこにキラキラ鮮やかに光る風鈴を56個刺して売っていた。彼が気になったのは、コストが安くて売っても大した金にもならないものを売っているからだけでなく、右手にもともと白なのに黒く汚れた安い軍手をはめていたからだ。

私は心中思った、よそ者の男や、北京で生計をたてられる、この通りで人は食っていけるが、風鈴を売ってもお前は一日分の飯代も稼げないぞ。おまえ頭おかしいんじゃないの?そんな仕事じゃ食えないぞ、そんなところにしゃがんで風鈴なんぞ売ってなんかおれないぞ。1回、2回、3回、4回と狩ればおばさんの間にしゃがんでいるのを見たが、5月が過ぎると彼は消えた。

靴底敷きを買うときおばさんに聞いた「風鈴はよく売れるの?」

おばさん「いいものか、ひと月たつのに数個売っただけ。11元でこの敷物より5角も安い」

 シエンヤーダン売りのおばさんが続けて「彼は農村で働いていた時、片腕を失って、右手は義手だ。かわいそうと思うが、私たち二人も彼に割り込んできてほしくはない......

 私はしばらく言葉に詰まった。

 シエンヤーダン売りのおばさんは言った、本当のところ一月にどれだけのシエンヤーダンも売れず、たった5,6百元稼げるだけだ。しかもその半分が手元に残るだけだ、農村にいる親戚が鴨を飼って鴨の卵を送ってきて、彼女が塩漬けし売る。

 「娘たちの稼ぎは少ないのに、今学校に行く費用が高く、しかも私のように働いたことのない人間には年金はない」---彼女は隣の靴底敷き売りおばさんを指し「毎月孫にやる小遣いを稼げればいい、娘たちはただで私の面倒を見てくれはしない」

 靴底敷き売りのおばさんもそうだと言うようにうなずいた。

 私は思わず豆製品売りとシャオピン売りを思い出した。彼らの女の子は親を助けて稼いでいる。父母は普通働いていて小さな女の子は毎月小遣いがいる。街の子特に北京の小さな女の子はよその農村の小さな女の子とは大差がある。

 私の最近は癇癪は意外にもおさまっている。私は一日一日年々歳々この通りに学び、徐々に私の怒りやすい性格とこの通りとは全く相いれないことがわかった。腹立たしいことに出会ったら、怒りを抑えられ、うまく取り持つ。それもおっくうなら見なかったことにして踵を返す。

 その通りでは私の罵り声は少なくなったが、状況は悪化しなかった。何回か私が大声で罵ったが状況はよくはならなかった、それと同じだ。

 多くの人が私と同じようにおとなしくなった。

 ある時かつてタンク車で通りを押しつぶしたいと言った人にあった。

私が「我々のこの通りは法の下にあると思いますか?」と言うと

彼は苦笑いして言った「どんな法律で治められるのだ? 相互理解万歳、いたわりと調和だよ」

 彼の話で私は突然十年来緊張感あふれるこの通りが、なんとなく作り出している品格、人と人のいたわりに気がついた。いわゆる調和、しかしこの通りではまずがまんだ。

 

 同胞の生計、生活、生存の苦しみ、この通りにはっきり表れている。この通りにも小学校がある、レンガの塀に囲まれ---

そこに陶行知の胸像と「愛満天下」の4文字がはめ込まれている。塀の根元の背の低い冬青の草むらは汚れて葉にはいつも痰がへばりついている。行知先生は終日塀の上からこの街を見ている、私はいつも彼のまなざしはだんだん憂鬱になってきているが、しかし穏やかになっていると感じる。

 

 時に緊張したが、この十年余、血を見るような暴力衝突もなく、ここ街の品格には全く感服させられる。

 

 この通りで起こった疎ましいことは、よく考えると結局は容認できるものだ。

 中国で起こっている疎ましいことは、しかし「容認」の2字で軽々しく対応できない。

 

之于未有,治之于未乱まだ問題がなんでもない間にことを処理し、混乱しないうちに収拾しなさい」老子のこの言葉はどんな言葉にも勝る!

 

2011/7/13

 

(訳注 Wikiと百度百科から)

陶行知 とうぎょうちYao Hang-zhi[]1891. 安徽[]1946

中国の教育家南京の金陵大学を卒業,1914年アメリカに留学。都市政策を学ぶが,のちコロンビア大学でモンローデューイらに師事し教育学を修める。 16年帰国し,南京高等師範学校教授となり,プラグマティズム教育学の紹介と導入に努めたが辞職。平民教育運動にたずさわり,郷村師範学校建設に尽力した。 1927年,南京郊外に暁荘師範学校を設立,徹底した経験主義的な教育を行う。また,上海郊外にも山海工学団を開設して「小先生」の方法を提唱,実施した。日中戦争中は国難教育社を組織して抗日教育運動を進めた。

之于未有,治之于未乱

典出:《老子》。

原文:其安易持,其未兆易;其脆易泮,其微易散。之于未有,治之于未乱。合抱之木生于毫末;九之台,起于累土千里之行,始于足下。

释义:做事,要在尚未生以前就着手;治理国政,要在乱没有生以前,就早做准

 


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譴責だけでは済まない 中国の子供患者遺棄事件と医療弱者救済 [中国語学習]

譴責だけでは済まない 中国の子供患者遺棄事件と医療弱者救済

出典 梁暁声2017中国人的人性与人生 仅仅谴责是不够的 P103-107

  医療費を払えない貧しい庶民は、メディアに泣きつけ!

  そんな弱者のために慈善基金をつくれ!

  メディアは人道報道を!病院は医療道徳をまもれ!

このような主張。この背景には、発展途上の医療保険制度の問題がある。

背景:中国の公的医療保険 2016年、都市ごとに、村ごとに異なる。

■都市部の就業者 (保険料率は賃金の810数%。うち本人負担は2%、他は雇用主)

■都市部の就業していない人(保険料は年数百元程度)

■農村戸籍者向け(保険料は年百元弱)

制度は試行錯誤しつつ充実しつつあるが、雇用主が保険料を支払っていない、本人が保険料払えず、保険者になれずに全額自己負担となって、医療費が払えないために治療を諦めるケースが続出している。

医療費の保険金は全く社会主義的なものではない。

 医療費が最低金額Minまでは自己負担、

 最高金額Max以上は自己負担(ある金額以上は保険金でるという日本のような甘い制度ではない)

 Min-Maxの間は例えば保険金50%

 薬は指定薬以外は自己負担

 参考記事:中国の診察料、標準費用はあるのか?病院によって異なる費用!

病院GUAHAO.jpg

 以下はたどたどしい訳文

 

わずか三歳の男の子が父親により国立病院に遺棄された。その男の子は白血病、身内は法律上の扶養義務ある父親であるが、子供の医療費を負担する能力がない。病院の説明では、子供の生命維持に毎日最低3百元必要。子供の命を維持するには骨髄移植が必要で少なくとも三十万元がいる。

 子供の父親は農民である。中国では、普通の農民がそのような高額医療費を負担できないは周知の事実である。身体強固建康な身内十人が毎月一回血を売りでもすれば十年後にようやく三十万元貯められる。しかし十年間毎日三百元の医療費はどこから来るのか?農民の子供のために順番に献血する身内はどれだけいるだろう?

 その父親はすでに破産同然でおろおろするばかりだ。彼を調査した人物でさえTVのカメラに向かって「彼は譴責されるべきだが、実情を見ると我々も同情を禁じ得ない」と言っている。中国では似たような状況が沢山発生している。今後増加することも考えられる。

 このような事件を単に何か肉親の情、倫理的な現象としてではなく明らかな社会問題と認識すべきであり、肉親の情、倫理の面からの譴責だけでは不十分であると考える。

 TVは、厳粛、むしろ緊迫した表情の病院のスポークスマンにインタービューしていた。私の記憶に間違いがなければ、それは共青年会の書記であった。彼はこのような話をした:「なんということだ、まさかこんな方法で社会に押し付けようとは?」私は彼の見解にまったく賛同できない。

 私は彼の見方に対し率直に言わないではおれない。私はこの種の出来事にこのように対応する人に強い反感を覚えるから。

 はっきりしているのは自分の息子の命を救おうとしても、自分の経済能力では救えない、明らかに一種の貧困現象で、明らかに全社会が注目すべき社会問題であるのに、それをどうして「社会に押し付ける」と言わなければならないのだろうか?

 「社会に押し付ける」この言葉は重い!事をこのように扱うと言うことは、社会問題的性格の現象を直接政治問題的現象に持ち上げてしまうのではないか?

 「社会に押し付ける」これはこのような出来事は皆社会を脅かす行為だと言っているのと同じだ!

  幸いにもこれは共青年会の書記だけの考えで、仮にももっと職位の高い人にこのような考えがあれば調和のとれた社会建設に有害無益な思想である。

当然私もその父親のやり方に賛成はできない。本件が報道されるや、すぐに善良な人たちが義捐金三十万余円を出したのではないか?もう一度言うと、私たちの社会で、特に民間において、無数の民衆の心に、互助精神がしっかり根をおろし、出てくる反応がとても速く、表わされる真心はとても貴重で、だからこそ感動的なのだ。

 これは、不幸にも自分ひとりではどうすることもできない人への啓示である、即ちもしどこにも助けを求めるところがないのなら、できるだけ早くメディアに助けを求めるべきだ。遺棄するのは理性的ではなく、かつ唯一の方法でもない。

 これはメディアに対する啓示でもある。メディアは単に客観的キャリアではなく、時に主観的キャリアでなければならない。主観だからこそ感動を呼べるのだ。つまりメディアは人間性を備えた社会公器でなければならない、さもなければメディアが社会の良知を担う義務という自覚すべき前提がなくなる。中国ではメディアは、なすべもない弱いものの為に、出来うる限り、義により大声を上げることが、メディア報道の最大の意義の一つで、これは絶対に小さくはない。メディアにとって、やたら主観的に飽きもせずあそこは何星級、こちらは何星級と知名度を争うのに比べ、義により立ち向かうことの意義はとても大きい。メディアがこのような義務を担うのはとても貴重だ。本件の報道の中で、関連したメディアの報内容はとてもよかった、ただぶちまけるだけでなく、人間的なものだった。人間味ある報道でありさえすれば民間の互助精神を喚起するのに役に立つ。

このことによる病院への啓示は:私が先にその病院について述べたとき、「国立」という二字を使った。これは「私立」と対比した言い方だ。私は、学校、病院、は特殊な組織と思う、もし公共的性格を備えているなら、同時に国立の品格を備えていなければならない。「国立」病院の品格とは何か?いつも人道主義を旨とすることだ。庶民はこの原則でもって、国に対し当然の評価をししなければならない。大きくても小さくても、省市一級であれ、農村の一級であれ、国立なら皆国家精神で、つまりもし私立病院が傷病者にお金第一で対応するなら、庶民はその経営者を見下げるだろう。もし国立病院がそうなら、国のイメージを損なうだろう。

 今回病院の反応や態度は良好だった。医者看護師の反応や態度も良好だった。白血病患者の子供が病院に遺棄されたからと言って、だれも彼の医療費を負担しなかったが、病院は必要な治療をした。まさしく国立病院が人道主義を旨とする面でとてもうまく機能し、指弾されるものなく、庶民が手を差し伸べるタイミングも良く、とても積極的だった。ここにおいて国家精神と庶民意識うまく呼応した。 

 しかし近年ある病院、国立病院でさえ、その処置に庶民をあっと驚かせるものがある、憤慨以外ほかのどんないい感情も起きない問題外の行動だ。その種の病院でこのようなことがあった時の第一の反応は、当病院は本当に運が悪い、金なしで看病なんて、そんなことできるところはない。人命が大事というのは病人個人のこと! 病院でそんな病人を治療しそれで損したら私の責任だ!私のこの責任をだれが面倒見てくれるんだ?彼らの第一の反応は完全に病院の人道主義に反していて、彼らが救急治療が必要な病人を病院から運びだしどこかに投げるなどのほか、全く善良と言えない行為がある。報道では曾てある病院では葬儀屋に生きたまま火葬させたと言う劣悪な事件もあり、これはすべて極端に非人道的心理のなせる業である。このような「国立」病院の劣悪な行為は庶民の国家精神に対する大きな疑義を生む。国家のイメージが大いに損なわれる。これは金では贖えない。

  このことは国家即ち政府への啓示である:いかなる病院、規模の大小を問わず、国家に代わり無料で愛情を持って一手に弱い庶民の命を救うのは不可能だ。中国は13億の人口があり弱い人の数は億にもなり、一本、数本のろうそくが百千万の人を照らせるだろうか?医療保険もいいがしかし既に不幸にも弱者となっているなら、その保険費も納められない。遥かに帆の見える舟、目の前の深い波の中の人をだれが助られようか?民生部門?我々はみんな知っている、中国では民生部門は災害救助活動期間の職能しかなく、国は毎年充分な救助費も出せないでいることを知っている。中華慈善総会は?彼らには苦労して集めたお金があるが、中国の膨大な弱者には焼け石に水であることも知っている。その支部は、省一級に設置されているが、そして沢山の省に設置されているが見かけだけだ。

 それなら、どうしようもないのか?当然方法はある。さらに国がやることやらないことを決めれば。即ち経済能力のある公用、私企業をたきつけその納税額比例で、1/100から5/100の割合で積み立てる会社あるいは企業名の慈善基金を作る。この基金は当然免税とする。 千本の川が海に流れ込むような慈善では、せいぜい義捐募金方式で集める「計画経済」「統一買付統一販売」のような政策が精一杯で、弱者が病を見くびり医療に頼れない厳しい現実には合わないことは立証済みだ。慈善は社会全体のことで、どうして社会全体がするのを歓迎しないわけはない。

慈善の看板の下で合法的な脱税する人が出るのを心配するのに対しては、私はあまりにも小さなことにこだわって大義を見失っていると思う。中国はたくさんの中国特有の複雑なことを管理する能力があり、たったこれだけのことができないわけがない。各級の民政部門に慈善基金を名乗る組織が毎年慈善救助に使っているかどうか検査させる、民政部門の職能がしっかりと動員されるだろう。

 

更に経験的な社会学の真相二点、その一つ文明社会の文明企業と文明素養ある企業家、双方ともに自ら社会から高尚であると認めてもらいたがっている。慈善事業がそうだ。ただ彼ら双方を大口慈善義捐家とみなし、金出すあなた、受け取る私というような簡単な考え方は企業の人間重視、人間性高尚化社会発展の規律と相いれない。このままいけば、この規律は漠然としたままで、企業が真に人間重視とはならず、人間性の高尚化は期待できない。私と同じように慈善問題を進んで考えるみなさん、ある大きなレストランで一卓198万元の前売りは売り切れという報道を読んでみてください、考えさせられのではないでしょうか?もう一つは、メディアがうまく悲劇を報道しさえすれば庶民の善良な気持が簡単に動かされる、このような認識は完全間違いだ。

 そうではない、社会の真相はそうではない。慈善は単に庶民のことではない。庶民の人道精神は国家の人道精神に主導され、庶民の憐みの心は国家の憐みの心で引き立てられなければならない。


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医師の社会的地位 梁暁声 TVドラマを見て [中国語学習]

最近YouTubeで中国のTVドラマ2本見た。長いのではまらないように!

2本共に靳东主演の病院を舞台にした医師のドラマ

テーマは医療道徳、大災害(SARS,水害)時対応など

狭い領域の話題なので、中国語学習者の負担が少ない。

的距

 

演,李晨担李晨潘虹李佳高鑫崔心心等人出演。40集。

该剧主要述了医工作者在现实的种种制下不懈追求职业理想、克服不解与偏的故事。201310月山视频道,卫视播。サーズ。

外科

 

鸿制片,李雪执导,朱朱编剧白百何李佳航刘奕君何杜娟等人主演的都市医励志电视剧44集。

该剧讲述了在代化合性的仁合医院,由一起29年前生的事故所引的故事[3] 

该剧20174月在北京卫视、浙江卫视。水害。

 このドラマはともに大都市先端病院の物語だが、農民と都市住民の医療格差、保険事情、受診手続き、先端医療など、中国特有の構造が垣間見える。

最近立て続けに読んだ梁暁声の本を見てみたところ、医者の社会的地位に関する小文があった。そこで、これを訳してみた。中国らしい人間関係「社団」が興味深い。

この人間関係は社会システムの欠点を補うもので清濁併せ持つとしている。中国よりシステムが整備された日本では、個人孤立の弊害が目立ってきている。

 

 梁晓声 2017中国人的人性与人生」「医生的位置」 P108-111

 

あなたの最も尊敬する「10種類の人」という民意調査があった。職業別順位調査である。

 しかし私には職業で尊敬できる、できないを分ける基準がない。その理由は、尊敬できる人がすべて尊敬できる職業についているわけではないし、尊敬できる職業についている人の中には尊敬できない、あるいは好ましくない人もいる。もし尊敬を重要に読み替えれば次の序列になる。

  一 農民、二 政治家、三 科学者、四 医者、五 教育者

 医者の社会的地位は、現在ますます高くなっている。勿論国内外を問わずだが。第四位から前におくことも、科学者の前に置くことも、甚だしきは政治家の前にさえ、そうしても政治家はきっとそんなに不満はないだろう。人は生きているので、飯を食わねばならないし、出来るだけ病気になりたくない、特にガンのような生命に危険の及ぶ病気になりたくない。しかし現在病気になる人は多く、がんになる人も多い。一旦癌になったら神のような医者でも手だてが無い。しかしそれでも差はある、発見が早いか遅いか、治療が間にあるか間に合わないか、手術の効果---いい医者いい病院なら永らえることもできるが、そうでなければ三ヶ月、半年でお陀仏。

 現在一種の社会現象として「社団」が多くなった、校友会、戦友会、なに会、なになに会だ。何人かが何かの縁で一緒になると、急いで渡りをつけ団体を作る。少なくとも集まった内のこの数人とあの数人が、ある部分と別な部分の人たちがというように。旅行で一度ご一緒、勉強で一期ご一緒、遊びや勉強そのものより、何人かと知り合うことのほうが大きな収穫なのだ。当然人が人と知り合いになることも学問。共通の話題をもちたい人もいれば、役に立つ人と知り合いになりたい人もいる。しかし役に立つ人とは、ほとんど共通の話題はなく、役に立つ分野だけの共通話題がある。

 別な社会現象は、どんな社団、あるいはわずかな人数で作った集団でも、医者は大抵欠かせないものだ。医者は一職業にすぎないが浸透力が非常に強い、世俗から高官まで、だれもが医者と知り合いになりたいものだ。医者本人が落ち込んでいて付き合いがとても億劫であったとしても、周りの人たちが医者と知り合いになりたいという渇望を減らすことはないだろう。

 考えてもみよう、知り合い主治医のいない局長や局長相当の人がいるだろうか?内科や外科の専門医師に知り合いのいない首長がいるだろうか?庶民が運よく看護師、受付、問診医師と知り合いになり、その人たちにも誠意があればだれでも大いに喜ぶものだ。そうではないでしょうか?それは病気になったとしても病院が近づきがたい存在ではなくなったと言うことを意味する。あなたは裏口で急診受付票をもらい、医師の診断時には、多分言い含めてあって、34分で終わりというようなことはなく、細かく調べてもらえ、いい薬や、新薬、特効薬を処方してもらえる。

 もし一個の社交圏内に一人も医者がいないとしたら、社交圏と呼べるのだろうか。そんな社交圏は構成不良である。

 誰の電話帳にも、看護師、医者或いは病院勤務者の名が見やすい場所に記入してあるでしょう。

 このような関係は時には大きな財産で、親密な親戚か、昵懇な間柄、または深い同情、憐み、惻隠、慈悲などがない限り普通は誰にも教えない。

 中国人と医者との関係は、人間関係の中で最も重要なものである。一般人が局長部長に取り入って知り合いになることはない。医者となると話は別だ。

 中国人と医者の関係は、運よくそのような関係を構築できた人にとって、非常に価値ある特許のようなものだ。

 中国の最近の「社団」現象は、本質分析によると、これは激変する時代に対する憂患だ。医者はすべての人間関係の中で、最も喜ばれる、その理由は次の二点といわれる、第一に、中国人はこれまでのいかなる時代より自分の命を大事にする。これはすなわち社会が進歩したことを意味する。そうではなく、自分の命がどうでもいいと言うのは社会に対する人の責任が極端に低下していることだ。第二に、診察を受けると言うのは中国では懸案の大問題である。絶え間なく改善しているが、なお大変なことだ。特に普通の庶民にとって。

 時代の発展の恵みがすべての人に平等にいきわたらない時、発展の負の面が強烈にある部分にしわ寄せが行くとき、人は時代と距離を置こうとする。それで人と社会の仲介関係が生まれる。中国式の「社団」は中国人と今の中国の「長所を伸ばし短所を抑える」選択なのだ。受動的でもあり主体的でもある。普通の中国人は社団が生まれることで社会発展の利益を受け、発展の負の面の苦しみを弱めたいと願っている。さらに社団には小規模だがすべてそろっている、すべてがその中に包み込まれていることを願っている。ガスの交換。子供の託児、転校、病気、入院、葬祭、もろもろすべてを面倒見てくれる。私はいつも一人の主治医、一人の内科、あるいは外科、或いはその他の専門医が人間関係の輪の中でまさに名付け親のような地位にあると思っている。

 だから医者という職業は二重に重要な任務をおびている。一つは広範な人々に対する任務、もう一つは社会のある階層、あるいは人間関係内の人々に対するもの。これは医者が自分自身で自由にできるものではない。

 最近多くの大病院で専門家診察を始めている、これはとてもいい事だ。平民にも専門家に見てもらったり手術してもらう機会が生まれた。

 最近「中国高級医師案内辞典」という本を読んだ。この本が世に出たことはとてもいいことで、人民を幸せにする高徳の積み重ねである。重い病苦に悩む平民にもこの本をよりどこに探せば高級医師の治療を受けられる。これを使わない平民は、もっぱら彼らの人間関係の中で一人の高級医師、あるいは一人の専門家をさがし、「天の縁(えん)」があってはじめて実現するものなのだ。

 高級医師と医科専門家にとって同じようにいいことがある。それは彼らを「層面」範囲の任務から解放すること、彼らの高名な技術貴重な経験を真の意味で人民にささげることができる。私はこの一点は間違いなく彼らの希望にかない、十分報われるものと考える。この点と医者という一職業の人に対して平等な人道主義原則が一致する。

 そうでなければ一致しない。

 最後に、私は高級医師と医科専門家のみなさんに言いたい、一人の平民があなたの前に座った時、ぜひとも特に注意深くそして我慢強くみていただきたい。彼らは高級医師や医科専門家診察治療を受けたくても、電話で連絡するなんてできない人なのだ。彼らはもともとあなたのことは知らないのに、知り合いになりたくても、知り合いになんかなれない人だ。彼らになり代わってちょっと考えてみてください、あなたの前に座れるようになったのは、彼らはとても運が良かった、多分想像を絶するような努力が必要だったはずだ!

 よろしくお願いします。

訳者メモ

否定の強調が難しい 最後の段落の中国語

他们不是想接受一位高级医生---,就可以通过电话联系上的人。不是は可以にかかる。

 


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当世中国青年階級分析 中国の将来を背負う人材はどこから? [中国語学習]

梁暁声 (2017) 中国人的人性与人生 P92 当今中国青年階層分析 

 外は酷暑、熱中症を避けて家にこもっていて、面白そうなタイトルにひかれつい読んでしまった。実例が多いので面白い。なお先日亡くなった人権活動家は梁暁

   原文はNET上で読める。例えば、ここで。

この文章は2011年頃「中国社会各階層分析」で発表されたものらしい。日経テクノロジーで永井氏が紹介している

 まず前提データ

人口データ(中国政府統計2015)

 総人口13.7億   

都市人口7.7億人(56%) 

農村人口6億人(44%)

青年人口(20-39)  4.26億人   ただし中国の青年年齢定義は18-39

■階級人口 近年市中に流布されているものだが一般性はない。

中産階級 家庭年收入17万元至45万元(2016年 約300-800万日本円、於北京上海広州深圳、これは全国平均の2)で家アリ、金融資産あり 

   2.5憶人 全人口の18%

都市平民階級 5.2億人 全人口の38%

■大学入試の不公平

本文章中に出てくる北京上海では大学入試試験に苦労しないと言う表現の根拠:

北京上海に住む受験生は優遇措置があって、他の省、都市居住の受験生より低得点でも入学できる制度。

 

筆者は当世中国青年を以下の4階級に分類している。

1.  お金に困らぬ「富二代」 資産2億元(35億日本円)以上 1万人強 

    尊敬に値する人材を輩出する可能性は少ない。

 

2.  中産階級の子女 全体の18%    

    中国の未来文化を創造する人材がいる。

3.   都市の平民層の子女 全体の38%      生活に汲々

4.   農家の子女     全体の44%      現状妥協

 IMG_2691梅雨の三浦房総.jpg

 ここからは拙い訳文

お金に困らぬ「富二代」

 新聞によると中国には現在資産が2億元以上の富豪が1万人余いて、彼らの子息を南方では「二世祖」と呼ぶという。巷には彼らの話題があふれ、いつも興味津々だ。その種の新聞は、彼らのさまざまな状況、主にお金で手にしたしゃれた生活を、行間に嫉みをにじませつしつこく書いている。しかし「二世祖」は中国の人口13億数千万に対し1万人、当代青年4億数千万に対して1万人、とても小さな比率でまったく普遍性なく、また彼らが金持ちの「二世祖」だからと言って、マスメディアが特別に注目する意義はないのではないかと思っている。彼らの挙動が社会に劣悪な影響を与えたら、譴責と批判、彼らが社会に対し有益なことをしたら褒め支持する、このような報道原則に基づいて彼らに対応すべきだ。そうでなければ彼らを無視してもいいだろう中国には注目すべき群体がとても多く、「二世祖」がどんな名車を運転とか、どんなペットを買ったとか、第何回目の恋愛相手は暇で何もやることがないとか報道するのはばかげている。マスメディアは社会の「複眼」だ、過度にスターを追っかけるのはうんざりで、いつもわけもなく「二世祖」に注目する、そんな「複眼」は重たい病気にかかっている。

上述の「二世祖」があるために、所謂「富二代」の定義はどうしてもあいまいになる。「二世祖」を含まない「富二代」はふつう次のような青年とされる---家は豊かで、夢はとても簡単に実現、例えば海外留学、車や家の購入、結婚など。彼らの消費傾向は往々にして高級で奢侈である。「二世祖」と同じように彼らは往々にして名車を所有する。彼らの家庭の資産は有形、灰色部分に分けられる:有形資産はわかるが、灰色資産ははっきりしなく、彼らの父母でさえわからない。私の所のある大学院生がかつて弱弱しく私に言った「先生、人と人の差はとてつもなく大きい。私のような学生は卒業後省都に帰って暮らそうとしても、家はため息の出るほど高い。それなのに知り合いのある種の学生は、恋愛した途端双方の父母が金を出し合い北京に彼らのために居室が3室の家を、それも各人に一戸つずつ買い与えた。さらに結婚となれば彼らにいい車を買い与える。北京の家はずっと高いのにあの人たちは高いのを気にかけない!」 このように「ある種」或いは「あの人たち」は即ち「富二代」なのだ。

私はこんな例も知っている。娘が海外留学し、スターになる夢が芽生えどうしてもTV俳優になりたかった。そこで母親が娘を連れて帰国し、あちこちつてを頼り、ある劇団の監督と知り合いとなり、劇の中のちょっとした役につけてくれたら、お金は一銭もいらない、逆に劇団に数十万元寄付するといった。監督はその娘には俳優の素質はないと言うと、それなら私が娘を助け、娘に思う存分やらせなければと言った。 その娘は疑いもなく「富二代」だ。

このような「富二代」の人生の辞書にはふつう「金がない」という字はない。彼らの家族特に父親は、或いは私企業の社長、或いは国営企業高官、実権を把握した役人だ。もし役人なら、彼ら自身でもその灰色資産がどれだけかはわかっていないだろう。彼らはお金に困らない生活を楽しみつつ、「二世祖」を横目に見て、彼らより自分たちのほうが生活様式、消費様式ともに余裕があり、常に彼らに負けないことを喧伝している。

国営企業高官や実権を持つ役人を父母とする青年にたいして、社会全体が深い関心を持っていなければならない。この種の父母の中には、明らかに弊害ある現体制の利益をもっとも享受し無意識に体制を擁護する人が少なくないからだ。このような親たちは社会民主、公平、正義の推進に対し不安、反感をもつ。このような父母の「富二代」が中年になり有力な或いは強力な発言権を持つと、かれらが頼みにしている親密な利益集団の立場に立ち、本能的に保護作用を発揮するか、またはそれほど私心なくその利益集団を超越して社会の公平、平和、正義の立場に立ち、社会の良心に符合した発言をする場合もあり、括目して待てばいい。もし彼らに後者のような中年になってほしいのなら、今から公平、正義など文化自覚を活用して、彼らにヒューマニズムの影響を受けさせなければならない。しかし文化的ヒューマニズミの影響力(文化的人文思想)について言えば、私の見るところ、中国では、彼らに対する影響力はわずかであるだけではなく、広範な青年に対してもやはり落胆させられる。したがって、私が将来の「富二代」を見る目は、全体的に鬱々としたものがある。彼らの中から社会的良識を備えた尊敬に値する人を輩出する可能性を排除はしないが、少ないと思う。

 

中国では、上述の「富二代」の人数は、だいたい12千万より少なくはないだろう。これには同様に十分財産のある人や、文芸娯楽界で特別成功した人の後代は含んでいない。しかしその人数は限りがあり、個別に論ずる意味はない。

 

中産階級の子女

世界のどの国でも中高級知識人家庭は中産階級の不可欠な部分で、少なければ1/3、多ければ半分を占める。中国は特殊で、20世紀80年代以前は少数の高級知識人を除くと、一般の大学教授の生活水準は、町の平民層の生活水準より少し高かったが、実際にはあまり高くなかった。20世紀80年代以降彼らの生活向上幅は大きく、彼らは改革開放の直接の恩恵を受けた群体であることは争えない事実である。住居条件は言うに及ばず収入状況から見ると、知識人家庭の生活水準は一般的にサラリーマン階層より高い。他にも中産階級にはいれそうなグループがある。最低のグループでも生活水準はいわゆる小康を越えている。

しかし2009年以来の住居価格の暴騰で、中産階級の生活状態は脅威にさらされており、彼らは心理的に深い傷を負っており、挫折感を持っている。私の語言大学の同僚を例にとると、子供の結婚の資金援助のために住居を買い、二三十年来の蓄積を使い果たしただけでなく、息子も百万元の借金を背負い、所謂「房奴」になったが、購入したのは八九十平方メータの狭い住居だけだ。ほかにも夫婦両方が五十数歳の大学教授は、二十数年教壇に立ってきて、手許に数百万の預金はあったが、息子が結婚年齢になり、住居価格が猛烈な勢いで上昇するのを目のあたりにして、どうすればいいのかわからず、いたずらにどうしたらいいんだと叫ぶしかなかった。彼らの子供は皆高等教育を受けた青年で、大学の学歴、修士、博士があるのだが。このような青年は結婚後奮闘して中産階級になるはずだったのだが、今その可能性は大幅に低下し、夢は遠のいてしまった。彼らが順調にホワイトカラーになるのには何ら問題はないが、ホワイトカラーはしょせん中産階級とは違う。中産階級はつまるところこのような「産」がある階級と言える。少なくとも人生の終末に自分が所有権を持つ住居があるべきだ。たとえ結婚後夫婦二人が各自給料万元でも、2居室の住居を買おうとすれば一部父母に立て替えてもらったとしても、百数十万元の借金が残る。毎年十万元返しても、返済には十数年かかる。また彼らが就職し月給が万元になるには、給料が隔年上がったとしても十年かかる。だから前後を加えると二十数年になり、彼らは五十になってしまう。五十歳になってようやく2居室住居を所有し、やっとのことで不動産を所有できたとしても、ただの「小康家庭」で、「中産」ではない。おまけに彼らは父母になる。いったん子供ができればその部分の支出が多く、その心配も無視できない。それで自分に所有権のある住居を持つ目標は、彼らから遠くなる。もし双方の父母のうち1人甚だしきは両方同時に、あるいは前後して難病にかかれば彼らの家庭は推して知るべしだ。

幸い、私の理解しているところでは、この種の青年は知識人の後代なので、知識出身といういいイメージを盾にして貧富差のとても大きな社会の強烈な圧力に対し闘う。彼らは比較的楽観的だ。彼らの普遍的な主張は、今を生きる、今をしっかり捉まえる、今を楽しむこと。もっと問題にしているのは、今現在がいい味わい、いい感覚かどうかということである。この一種将来をおろそかにして瞬間を楽しむ生活態度(カルペディエム)、そんな態度を見る度に父母たちは首を振り振りため息をつき、自分たちのほうがもうすこし賢かったと思うのだった。さらに彼らはだいたい今の青年たちと同じく晩婚主義だ。内心ひそかに独身主義も彼らの中には少なくない。正常年齢で結婚するのは約三分の一、「ディンクス」主義者はいくらでもいる。

今の中国の青年のなかでも、彼らは特に精神的な享楽をとても重視している。彼らはファッションを好み、比較的精細なものを好み、往々にして高雅である。彼らは都市文化の主力消費者で、文化に対する要求は厳しく、ある時には辛辣である。彼らのうち一部は一生赤貧だが、落ちぶれると言うほどではなく、草の根に沈むわけでもなく、弱者と言うほどではない。物質生活面で富かになるのは彼らにとって簡単ではない。かれらは中国の精神貴族になりたいと考えている。実際彼らにはYappiの特徴があり、精神貴族の特徴がある。

どんな国にも精神貴族はなくてはならない。まったくいない国の文化は取るに足らない。たとえアフリカの民族部落であっても、彼らの文化楽しむ精神貴族がいる。

彼らの中に、中国未来の高品質文化を守る人間が少なからずいる。この種の文化を守る人間は彼らの中からだけ出現すると言うのではなく、必然的に彼らの中から発生し、彼らの中から発生するのが必然的かつとても多いと言いたい。

 

都市の平民層の子女

この階層出身の今の青年で、特に高等教育を受けた者の内心はもの悲しく痛ましい。彼らの父母、子供の大成を望む父母、この類の父母は大抵不遇な人生を経験しているので、青年時代にいい生活をしたいと言う願望が強かったが、その夢が社会にでて粉砕される。この夢がまだ胸の奥深くにあり、時々それが光を放つ、まだその願望が残っているのだ。その人の身になってみれば確かに心が疼く。これまで中国の都市の平民の生活は農民に比べ確かに良くなっていて、農民の羨望の的である。しかし現在農民に比べいいかどうかは定かではない。現在都市の平民は少なからず裕福な農民を羨んでいる、少なくも農村の別荘のような二、三階建ての家を見るととても及ばないと嘆息する。しかし農民が彼らと変わりたいといっても、必ず首を振って断る。彼らはもう何代も都市に根付いており、植物でも人間でも水と土が合わないかもしれず移動は冒険だ。人の場合、水と土が合わないからと言って戻ることはできず、痛みは強くなる。

「暮らしは、子供のできによるんじゃないの」これは都市の平民の父母の間でのよくある会話で、唯一希望を託すのは子供で、いい暮らしをする唯一の手がかりで、家庭全体が生まれ変わる希望だ。ゆえに子供とは、運動のコーチと選手、ボクシングコーチとボクサーの関係である。彼らの見方では、社会はまさに大きな競技場である、これは基本的に事実、少なくとも今中国では疑いもない事実だ。だから彼らは重々しく、厳粛な表情で子供に言う「こどもや、我が家の生活はすべてお前にかかっておる」都市の平民出身の青年は、小さい時から大きくなるまで、このような話を聞いたことない子が何人いるだろうか?

こんな話と十字架にどんな差があるだろう?言外の意は お前は有名大学に受からなければならない、有名大学を卒業してようやくいい仕事にありつける。いい仕事にありつけば出世するチャンスがある。出世した子を持つ父母だけがお前のことを人前でひけらかすことができ、幸福で尊敬される生活を送れる。そうなってこそお前は父母の期待に背かず……言葉には出さないが父母はそう思っているんだ。

そこで子供は理解する……父母の要求は私が社会のレースで困難を乗り越え金賞金ベルトを獲ることだ。そこで彼らにとって、小学校から大学まで学校は競争の場や闘争のリンクになる。北京や上海を除いて、どの省のどこの都市でも大学に合格するには終日骨身を惜しまず勉強しなければならず、有名大学に受かるにはもっと容易ではない!ふつう規則では有名大学に受かるにはまず重点小学校に入らなければならない。平民家庭の子供にとって重点小学校に入るのは有名大学に入るのと同様に、甚だしきは有名大学に入るより難しい。有名大学に入るには成績が良ければいいが、重点小学校に入るには賛助費が要る。平民でなければ耐えられる。往々にして借金して払ったとしても、コネがみつからないときも。したがって家柄を変えると言う重々しい十字架を背負った平民家庭の子女は小さい時から霊魂を中国教育制度に売渡し、試験の得意なロボットと化している。しかしたとえ重点小学校、重点中学校、重点大学に入り最後に龍門を跳び越えたとしても、今ようやく龍門あたりにいるが、まだ単に小魚でしかなく、社会に踏み入れると、仕事を探すのは普通の大学よりましだが、給料は大して高くないない。修士、博士も大差ないので一層落ち込む。

その他に普通の大学だけに合格した場合、子供は大学入試試験が終わると父母に申し訳なく、さらに大学を卒業するとさらに申し訳なく感じる。給料の一部を月月父母に渡し、自分が使えるのは少ない。父母に渡さなければ、良心が許さず、メンツが立たない。生まれ育った町にいれば、結婚を考えなければ、一年一年と実家を頼って住み、毎日父母のを食べる、「老人をかじる」とは言わないが実際上かじっている。実家から離れている場合、自分が「蝸牛」の「アリ族」になってしまったことを親に言いたくはない。農村の貧困家族の子女と同じように彼らは中国の不幸な、苦しんでいる子供たちだ。

中国はこれから大々的に国際イメージプロジェクトに数千億元を浪費するが、少し節約して、この苦しんでいる子供に使ったらいい。これは正しいことだ。

彼らのうち大学に合格した者は、ほとんどが意志の固い青年。

彼らのうちには心理的問題が出てくるものもいる、彼らへの関心、暖かさがなければしばしば自殺、自虐行為、他人を傷つけるような悲惨な事件をひきおこす。しかし彼らは全体として危険な群ではないが、心のうちに最も鬱積し途方にくれている群であり、悩み多く、痛み多く、苦しみもがいているにもかかわらず救いの手が差し伸べられていない群である。

彼らの心は感情に敏感だが、世渡りは無関心だ。彼らを援助する人にたいして、彼らの心理は感謝にあふれているが、往々にして自尊心を傷つけられた痛みを覚え、ときに感謝を表わさず、冷ややかさをよそおう。これが彼らを替わった性格と思わせる。こんな時には彼らは内心もつれ苦しみにさいなまれている。彼らは同情よりも公平を望み、優しい付き合いよりも心からの友情を望む。

かれらと心からのつきあいする人はだれでも、強力な信頼心を持っている、彼らは主人に忠実な犬のようにその友情に忠実だ。彼らのそんな友達は付き合いにくいが、付き合い始めると一生の友となる。一般に彼らは軽々しく或いは先に友情を裏切ることはない。

彼らはまるでジュリアンのようだ。ジュリアンとの違いはあの大きな野心。事実上彼らの人生の願望はとても現実的で、簡単に満足でき、とてもありふれたものだ。しかし彼らにとって、「一回でもチャンスをくれ」これが彼ら心の中でひそかに何遍言ったかしれない言葉だ。しかしまだ一つ問題がある。この言葉はチャンスをつかんだ人に大声で話す必要があるのだが、彼らは往々にして同時代人に比べ話す前の心理負担が大きい。

 

彼らのうちの意志の強いものが、将来不屈の個人のバックアップの下奮闘し世の人の偶像になるか、社会貢献、ヒューマン思想力十分な有数な人物になるだろう。

ヒューマニズムは通常豪華な生活する人とは無縁である。トルストイ、ユーゴは例外で、彼らの人生を調べると、貴族出身だがかつて一度も豪華な生活を誇りにしてはいなかった。

農家の子女

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家が農村にある大学生、あるいは就職した者、家が比較的裕福で、南方のように山紫水明で環境がよく交通の便のいい農村で、大都市で戸惑いを感じた者は、都市の平民青年より少ない。これは彼らの農民父母の彼らに対する要求は高くはない。彼らが都市にしっかり根を張り一家を構えれば父母は喜ぶ。もし彼らが都市に住みにくく、省都に帰って働くのなら、父母はやはり喜ぶ。彼らは無駄に大学に入ったのではないと考える、たとえ彼らが近くの都市に帰って仕事したとしても、父母は少し残念と思うが、すぐに残念というのは過去のことになる。

とても少ないケースだが、大学に入った子女に「我が家はお前に期待している、お前で我が家の先祖代々の農民という運命を終わりにしてくれ!」という農民もいる。一人の高等教育を受けた子女が必ず完成できる使命ではないことは彼らも知っている。彼らは子供に高等教育を受けさせるがそれは単純な発想だ、子女が高等教育を受けて生活がよくなるなら、教育を受ける価値があると言う考えだ。中国の農民はおおかた子供が親に報いることは期待していない。彼らの子女に対する期待より土地への期待依頼の方が強い。

したがって幸運にも比較的豊かな農村、村、小さな集落に住み家がある者が、大都市に出て学び、大都市に漂泊していたとしても、都市の平民学生青年の精神状態に比べ、いくらか気楽なところがある。彼らには退路、我が家がある。家庭が睦まじければ、門は永遠に彼のために広く開いていて、家族はいつも彼らの帰るのを歓迎する。だから仮に彼らの都市での住居がコンテナだったとしても、南方ではすでにコンテナを彼らの住居とする現象があるのだが、彼らは往々にして歯をくいしばって耐えている。彼らが大都市にとどまって苦しみながら奮闘、甚だしきは何年大都市を漂流してたとしても、これは完全に彼ら自身の選んだ道であって、家族からの期待による圧力ではない。もしも彼らが本当に働きつかれれば、家に帰り休養、しばらく調整する。「おさなごが花にむらがる蝶をつかみ、みんなは木につるしたブランコをこいで」(訳注1)、「松が花の小道をふさぎ、雨の中で花が窓の格子に」(訳注2)のような家に帰れる。このような家の戸口に座り、「竹馬を取り合って乗り、隣の花をこっそりとる」など昔のことを思いだす、これはまさに療養に等しい。たとえかえらなくとも、このようにちょっと考えるだけで疲れは吹っ飛ぶ。彼らが学生、会社員、アルバイトであったとしても精神的達観で支えられている。ある種の達観であり、楽観とは思えない。達観できると言うことは彼らにとって素晴らしいことである。

彼の故郷が農村或いは辺鄙な貧しい農村なら、大学の学生か、大都市の就業者か季節アルバイト工かで、その心境はことなる。

季節工青年はふつう最終的には家に戻るのだから、季節工が家に帰ると、たとえ年一度の祝日の帰郷であったとしても、心配が募り、楽しい気持ちはない。

大学卒業生が帰っても意味はない、彼ら自身、そして彼らの家庭にとっても意味はない。省都でも、町でも、大学卒業生に見合う仕事はないので、彼らは省都や村にも戻るのは難しい。農村には直接大学卒業生を採用するような村の官吏はないのだ。だから農村出身の卒業生が「あきらめない、絶対にあきらめない」で都市に残るというのを都市や社会は理解しなければならない。

 

もっといい時代だ 

最悪な時代だ

 

この二句はCharles John Huffam Dickensの小説「双城記A Tale of Two Cities」の冒頭の言葉。それはつまるところどんな時代かは、いちいち書いてない。Dickensはいい時代を前に、悪い時代を後にしているが、これはそんな時代を肯定していることを意味する。以下に彼の書体を借りて言えば:

当代の中国青年、彼らにはみんな失望させられる。

中国当代青年、彼らは中国の未来を託せる青年だ。

彼らには失望させられると言うのは、中年の目から見ると彼らはたくさんの病を持っているようみえる。諸病のうち一人っ子のあまえ、傲慢、自己中心という悪い習性、娯楽を追究し教養を軽んじ不真面目な態度は不快である。

彼らには中国の希望を託せる、彼らは1949年以後真摯に人間性を発露した年代で、忠実従順意識の遺伝子が最も少なく、本当の意味で生まれ変わった年代だ。彼らの目には世界は本当に平らで、彼らの思想の底部には民主、自由、人道主義、社会公平正義の尊重と追及があり、それ以外のいかなる年代よりも本能的で強烈である。

まだ彼らの影響力は顕在化してないが、彼らが全体として一旦声を挙げたら、十中八九進歩思想同調者や公明正大な人たちになるだろう。

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    (訳注1)

寒食        王禹偁
    今年寒食在商山    山里風光亦可憐 稚子就花拈蛺蝶    人家依樹系秋千
  
   郊原曉綠初經雨    巷陌春陰乍禁煙 副使官閒莫惆悵    酒錢猶有撰碑錢
   

(訳注2)

《蜀中杂诗二首》 阎尔


江干琴史購零星,金石敲殘指血靑。羅漢松遮花裏路,美人蕉錯雨中櫺

繅絲錦迎蠶虎,過峽賨船祭鼈靈。題罷雪樵行樂卷,可憐宦亦漂零。

仲冬天氣似花朝,巖壑蒙茸翠未彫。半截雲藏峰頂墖,兩來船斷雨中橋。

漁邨烏柳圍金橘,僧閣香枏蔭鐵蕉。地接蕃駹人習苦,荒山紅葉女郎


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尴尬 真実と嘘 真実なら話していいか [中国語学習]

尴尬 概念分かりにくい。

ふとこんな話が目にとまり訳してみた。


本当の話で難局[真话的尴尬处境]

    出典 梁暁声「中国人的人性与人生」現代出版社 2017/1 P51

 

年を経るに従い話すことを習得し、さらに徐々に嘘をつくことをマスターする。嘘をつくのは、本当の話をすると往々にして自分自身ばつが悪くなったり、話し相手にばつの悪い思いをさせるからである。甚だしきは相手を怒らせ、抜き差しならなくなり、災難だ。

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言い伝えによると、清朝光緒年間にある巡視役人 [撫台]が粗末な私服で街に出た。そこで一人の揚げパン売りの少年に逢い、聞いてみた「ここの巡視役人はいいやつか?」少年は言った「つまらないやつさ。」撫台はそれを聞くととても怒ったが、ぐっとこらえ、言葉も顔色も変えなかった。役所に戻ると、少年を連れてくるように命じ、数十回叩きの刑に処した。

その後少年が大きくなると、世俗的に言えばとても前途有望な青年になった(とても見込みある人物になった。心深く刻み込まれた本当のことを言ったあの時の教訓にとても感謝していた)[后来这孩子长大了,按俗常的眼光还颇有出息(他能颇有出息,实在得感激说真话的那一次深刻的教训)]

 あるとき大臣が彼に話した、

大臣「この文章どう思う?」

彼「いいと思います。」

大臣は頭を振った。

「ある面からいいと言いました。」

大臣は頭を振った。

「私は申し上げたのはある面から、それは焦点を。」

大臣は頭を振った。

「正確に言えばこの文章は少しロジックが混乱しています。」

大臣は頭を振った。

「要するにこの文章は表面的にはよいが、本質的にまずい。はっきり言えばとてもまずい文章です!」彼は威厳ある口調で最終結論を言った。大臣は実は服がしっくりこなかったので頭を振っていたのだった。しかし大臣の彼に対する意見にとても満足していた。   

 大臣は国王の前でたくさんのいい話をしました。ある日国王は彼を召して言った「この詩をちょっと読んで、言ってくれ、お前は今までにこのような筋の通らない詩を読んだことあるか?」

彼は詩を読むと言った「陛下、何についてもあなた様の慧眼には恐れ入ります、この詩は私が今まで見た詩の中で最も劣悪でばかばかしいものです。」

国王は問うた「この詩の作者は自分自身非凡だと自負している、そうだろう」

彼は言った「ご尊敬申し上げる陛下様、それに勝る評語はございません!」

国王は言った「この詩は私が書いたのだ。」

「そうですか?」

彼は心の中にとてつもない不安がかすめた。ただちに不安を抑えて、両手で体中を撫でまわすふりをして敬虔に言った「ご尊敬申し上げる陛下様、ご存じないと思いますが私は高度の近眼で、さっきあなた様の詩を見たときには眼鏡をかけていませんでした。眼鏡をかけてもう一度読ませていただけませんか?」

国王はぎこちなく肯いた……

彼は眼鏡をかけもう一度読むと崇拝するような口ぶりで言った「おう、ご尊敬申し上げる陛下、このような詩天才が書いたのでなければ、天才はどんな詩を書くのでしょう?」

国王は笑って彼を見て言った「以後、正確な結論を出す前には絶対に眼鏡をかけ忘れるでないぞ」

私はこの3個の話を短く編纂したのは、風刺のためではなく、嘘を話す技巧がいったん経験されると、本当の話の存在意義は無くなると言うことを指摘するためだ。本当の話は命ある物と同じように適切な生存環境がいる。この生存環境なくして、本当の話を話すのは愚の骨頂であり、嘘は聡明でかわいいものだ。社会の良識と文明が本当の話を話すようどれだけアピールし、要求し、鼓舞しようとも、本当の話は土の奥深くにうぬもれた発芽しない種と同じようにおし黙っていて、嘘の話は大手を振って歩きまわるものだ。

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梁晓声 千年の病竈  中国人の奴性はどのように形成されたか? [中国語学習]

千年の病竈 中国人の奴性はどのように形成されたか?

出典:梁晓声 千年病灶:中国人的奴性是怎么形成的?」人民網

http://history.people.com.cn/GB/205396/17320585.html

    これは「中国人の人性与人生」現代出版社、2017.1などにも掲載。

中国人は意外にも今に至るも「奴性」にこだわりがあるようだ。

乱暴にこの文章を要約すると次のようになる。

①中国人の奴性は漢民族が宋代に金に征服され、その後元(モンゴル族)、清(満族)征服されたため形成された。

②その後抗日戦争で劣性を捨て去った。

③しかし最近の2,3億の農民出稼ぎは一人っ子で甘やかされ劣性階層を形成。

 中国漢民族はほかの民族に征服されても、結局はそれら民族を吸収同化してしまった。しかしその過程で「奴性」を手にした。そののち、日本は中国を侵略したが、漢族を征服できないどころか、彼らに奴性を捨てさせる契機となった。

奴性を捨てるのに太平洋戦争が大きな役割を果たしたこと、今も中国で「奴性」があると言う主張が新鮮で、この文章を訳してみた。メモとして残しておく。

 IMG_1650岳飛S.jpg

 

「国民劣根性」問題は、「五四」知識分子がまず提起した。これについて誰もが魯迅を思い出す。実際は魯迅だけではなく当時知識人すべてが注目していた。どうにもならないと嘆息する人あり、心を痛める人あり、心こめて啓蒙する人もいたが、魯迅はその不幸を悲しみ、闘わないのを怒った。梁啓超は魯迅以上に「国民劣根性」を糾弾した。陳独秀は「新青年」創刊早々激論を発表した:1919年以前に生まれた者は死ね、1919年以降生まれたものだけが生きるべきだ!どこからこんな言葉がでたのか?国民劣根性に焦点を当てたのだ。彼の言わんとするのは当然肉体のことではなく思想、精神のことだ。蔡元培、胡適も国民劣根性の存在を否定していない。彼らは寛容な君子型知識人であり、同胞を厳しく糾弾するに堪えなくて、思想の啓蒙で直せる、教育で救国、強国をめざし優秀な新しい国民の種を育てた。蔡元培は北京大学学長就任演説で次のような希望を表明した:自由な精神と独立思想を持った新しい国民を養成するという彼の教育思想が彼の本来の願望を表している。

聞一多も国民劣根性について考えている。しかし矛盾があった。友人の海外で優生学を学んでいた友人の潘光旦が聞に手紙で、中国人が優生意識に欠けていると書いたところ、聞一多は返信で「お前が西洋理論で中国人の種族上の劣勢を証明したら、ピストルを手に入れる方法を考える。お前が帰ったらこの手で殺す」。

しかしながら、彼は「よどみ」という詩を書いている。

 絶望的なよどみ

清らかな風でもさざなみがたたない。

捨てられた屑同屑鉄のほうがいい、

いっそお前の残飯や食べ残しの菓子をぶちこもう。

もしかしたら銅は翡翠になり、

鉄の缶のさびは桃の花びらに。

よどみの油被膜で絹織物を編もう、

ばい菌が雲や霞をわかせている

 このような詩は明らかに国情や国民の劣根性を詩としたものである。聞一多は外国から上海に帰るや、時をおかず五・三〇事件が起こり彼は怒り悲しんで「発現」を発表した。

私は来た、私は叫んだ、血と涙に飛び込み「これはわが中国ではない」違う、違う。

なぜ彼は違うと思ったのか?海外滞在時に得た見識から、その時の中国国民が活気ないと強く感じたのだろう。違うと言うのは国家のイメージと国民の活気ない精神状態を受け入れられないと言うことだ。
 当時中国人は、外国人に東アジアの病人とバカにされ、自分たちをアジアの眠れる獅子に喩えていた。獅子は元来獰猛だが、当時我々は麻酔を打たれ、永遠に眠って、怠け猫の類だった。

 清末以前、中国の思想家は国民性について論じているが、その劣性について論じても、それは人類の普遍的な弱さ、劣性についてであって、決して中国人固有のものとは考えていない。

だから、私たちはここで第一の問題、ある種の劣性は中国人だけの先天的で固有なものかという問題に触れる。

私の答はノーである。
 人類は駿馬や良犬のように優勢交配繁殖できない。いくつかの人間性の欠点や弱点は人類普遍で固有なものだ。そしていくつかの劣性は人類だけのもので動物にはない、例えば貪婪、恩義に背くこと、陥れること、虚栄や偽善など。だから人類普遍の弱点、欠点、劣る点についてことさら中国人を批判してはならない。ただ歴史、文化のちがいで、その国の人に広くある種の劣性を生成することはできる。例えば西洋の欧米アメリカは資本主義の継続期間が長く、ある種の列強劣性がある。そのうち最も劣悪なのは奴隷販売、種族への偏見である。

 当然これは彼らの歴史である。

 第二の問題、中国人の「かつて」の劣根性の主なものは何か?「かつて」ということを強調するのは、現在の中国と五四以前とは大きく異なり同日には話せないからである

当時民族の「劣根性」の主なのは奴性(主人の目を盗んで怠ける)で、「五四」知識分子が絶望したのは奴性である。奴性はどのように形成されたか?中国の歴史をさかのぼる必要がある。

かつて唐代中国人の劣根性を批判した人はいない、中国の古い書籍にも記載がない。唐詩は豪快、ロマンティック、格調高い、これが私たちの唐人の国民性形成するのに大きな影響を与えている。唐詩の上述のような特徴は宋代早期の詩詞、蘇軾、欧陽脩、範仲淹に受け継がれている。

しかし宋中期になると、宋詞には頽廃、無聊、言葉のあそびのような自己憐憫などが現れ始めた。傷心涙、相思情、莫名苦、などの言葉が宋詞に頻繁に出でてくる。今日の文学愛好者で詩詞が好きな人の中で、男性は唐詩を好み、女性は宋詞を好む。唐詩は男性の心をつかみ、女性は宋詞の少女趣味を好む。

唐詩の性格が宋後期になぜこのように変わったのだろう?

北宋はしばらくして金に滅ぼされた。いま宋詞三百首を開くと、第一首は宋徽宗の「宴山亭」:

 白絹を裁断し、軽く折りたたむ、淡い口紅をむらなく塗り、

流行のきれいな服、あでやかで美しい色彩にさわやかな香りに溶け込み、

天上の蕊珠も恥ずかしくなるほど。

容色衰え、無情の風雨を経験し、悲しい情景にあい、寂しい庭を訪ね、

また何回かの春暮を経なければならぬ。

そのつがいの燕には世間の苦しみはどうしてわかろう。

天は遥か地は遠く、幾千幾満の河や山に阻まれているのだろう、

昔の園は今どこかわかるわけがない。

夢の中で行ったことはあるが、その夢さえ見れない、

つらい夜寝れないのだから。

宋徽宗が見た夢はどれも大宋王宮に帰りたいと言う夢で、哀れにも囚われの地で亡くなった。

「人の世はたえず移り変わり、今はやがて昔になり、未来はやがて今となる。(子登-孟浩然)朝廷繁栄と交代は、歴史のなかでは常にあることだ。しかし王朝が全く異なる文化に滅ぼされるというのは別なことだ。北宋は完全に滅亡したわけではなく、一部の臣は長江以南に逃げ「南宋」歴史上では「小朝廷」をたてた。「大宋」から小へそしかろうじての存在、これは南宋人の心の痛みにならざるを得なかった。ナポレオンが英国の島で囚われの身で亡くなり、当時のフランス人は心を痛めた。このようなことはどこの国でも傷となり恥である。

よってこの時期の宋詞は豪放にはなりえなく、悲しい句しかない。南宋の士から庶民に至るまで間違いなく憂慮すべき状態、南宋はいつ滅ぶか?という事態だった。人々に全く安心感がないのにどうして豪快に、ロマンチックになれようか。当時李清照は歌っている「今になって項羽のことを思う、江東を越えるのは気乗りしない」

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その後果たして南宋も滅亡した、この時滅亡させたのは元で、元は都を大都に作った。

元朝統治下の人々は4等に分けられた、第一等は当然蒙古人、第二等は色目人(西北少数民族)、第三等は「漢人」金統治下の長城以北に長く住んでいた漢人、第四党は「南人」南宋滅亡以降統治していた漢人。

更に元朝は科挙を廃止した。これにより前の王朝時代に官僚階級についていた人々の望みが消えた。仕官こそが古代知識人のもとめるものであることは周知のとおりである。同時に「駆口制」を実施した。これは南宋捕虜とその一族を元官吏の奴隷と規定し、売買可能、贈り物可能、殺してもいいとした。さらに「匠制」を実行し、数百万の職人を「匠」とし技工の職人奴隷とした。南宋の官吏については「誅捕法」を実行し捉まえては殺したので、彼らは山奥に逃亡し、名前を隠した。南宋の知識人は恐れおののき、「誅捕」に遭い、遁世するしかなかった。

漢族の詩性は完全になくなった、奴隷になりたくなくてもならざるを得なかった。集団的奴隷根性はここから始まった。

 枯れた藤が木にまとわりつき、枝には夕暮れに巣にカエル烏が住んでいる。

小さい橋の下には水がさらさら流れ、傍らに何軒かの家がある。

古めかしく荒れた道には、秋風がざわざわ、

渭匹の疲れ痩せさらばえた馬が前を行く。

夕日がゆっくり西に落ちていき、憂いと悲しみに満ちた旅人がはるかにさまよう。

 今馬致遠のこの詩を読むと、詩人が表現しているのは単に旅人の望郷の念と考えてしまうが、それでは彼の当時の心の中の悲しみをまったく理解していないのだ。

 当時巷ではこう詠われていた。

中華という、中華と申す、中華はいいところ、

元の皇帝が来て以来、十年間のうち九年間は荒廃。

 元朝享国92年以後明朝。明朝は平定から中興、滅亡という普通の経過をたどった。「初期の平定」は「専制」で、専制以外では初期平定はできないものだ。明朝の大興「文字獄」では、たとえ一編の詩でさえ目障りとみなされれば、一族郎党処刑された。270年後明朝は腐敗のため滅びた。

  次に清朝が起こり中国を276年統治した。

世界でこのような経過をたどった国は多くない、このような経過をたどればその国の人に根深い奴隷根性を植え付けると私は思う。奴隷根性たっぷりなら生き延びられる、所謂なるに任せれば生き延び逆らえば死ぬ。これが長くなると、奴隷根性が性格になる。嗣同が死をも惜しまずその奴隷根性を揺さぶったが、山を動かすのは簡単でも、奴隷根性を変えるのは難しい。

 魯迅はこの難点を悲しみ怒り、鬱々として「薬」を発表した。

それゆえ清朝が倒れると知識人はこぞって「国民劣根性」を批判した、彼らの見方は正しく、国民劣根性に対する処方は正しかったが、あるものは優しすぎ、あるものは激烈であった。

こうも言えるだろう。想像を絶する艱難辛苦と感動に値する八年の抗戦と国民劣根性に対する批判とには一定限の関係がある。この批判は疑いなく中国人の霊魂を痛めつけたが、この痛みの後、奴性を捨て去る勇気となった。

要約すると、今日の中国人は、決して梁啓超、魯迅がその当時あふれていた奴性が身についた、ぼんやりして無感覚な中国人ではない。我が中国人の国民性には、これまでにない変化があった。「国民」はただの「民」ではない。現在中国人全般に権利の保護意識が高まっている。一般的な概念の「民」は「公民」に転化している。民は官に発言する、民は役人、高官、政府に発言する、以前は言えなく発信しなかった。「楊三姉妹告発状」で告発したのは官、官庁役所だ。しかし今、これまで平民とみなされていた低階層の人や農民が官や政府を告発するのは当たり前で、奴性は明らかに中国人の過去の烙印となった。

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しかし、考えなくてはいけない現象がある、それは近年来の青年労働者の飛び降り事件である。彼らの多くは農家の子女である。父母よりも理性あるべき子女が死を選ぶなんて、親たちはあきらめきれない境地だ。彼らは親よりずっと脆弱なのだ。これは彼らが農家の子女であるのに実は小さいころから甘やかされたからだ。一人っ子たる彼らは町の一人っ子と同じように「宝」なのだ。だから以前の農家の子女に比べ、それほど農作業したことがない。彼らの投身自殺は「あまやかす」の別な表れと言えるかもしれない。さらにもう一点、もしも彼らが単調単純な環境秩序の中にいて、その秩序が脆弱な彼らの心に受け入れられ、また綿密な人間的な配慮がなければ、彼らは或いは徐々に秩序にあわせようとし、秩序を変えようという主体的意識もなく、奴性に似た秩序のもと無感覚になるか、それとも死をもってすべてを解決というような極端に走る。

2,3億もの多くの出稼ぎする農家子女を、発信力と理性、個人の利益意識そして集団の利益意識を持たせ、必要なときに権利意識を主張できうまく正当な行動ができる青年公民とするのは、全社会の責任だがその道は遠い。

  ネットが普及してから、中国人の社会的な事件への参加意識は限りなく大きくなってきた。特に公平、道義、社会的同情について中国人のこの方面へのかかわり方は情熱にあふれ、絶対に他国に引けを取るものではない。しかしネット上にはふざけた話がとても多い。

 これはユーモアと考えることもできる。ある種のことに対してはユーモアは確かにはっきりした立場を、時には芸術的な表現。しかしユーモア意外にからかう、どう行ったらいいかわからない。
 私個人はネットは公衆が公民社会の要求と意見の場であり、昔の農村の会議を開く場所でもあり娯楽の場でもあった郷場よりいい。会議開催が滑稽であるなら厳粛なことも娯楽になり、徐々に郷場の存在意義も単位娯楽場所に代わった。

  皆さん、時間は分母で、歴史は分子であることを強調させてほしい。現在からの時間が離れれば離れるほど、歴史の現実に対する影響が遠のき、ついには歴史は現在に対する影響がなくなり、単なる記事となる。そうなると人類の歴史に対する要求は、間違いのない正しい単なる真実で、公正な認識価値でしかない。逆に歴史を分母とするなら、人類は歴史から逃れられず、歴史の重荷を背負い、歴史の奴隷になるだろう。

 中国は多民族国家である。抗日戦争で、漢民族は試練を受け、漢民族をして生まれ変わらせただけではなく、漢民族と、満、回、朝、ウイグル等の民族との関係も試練を受け生まれ変わった。このように言えるだろう、各民族は空前絶後の団結をした。古代の歴史は漢民族をあのように、漢民族と他の民族との関係もあのようにした。近代の歴史では、漢民族、漢民族と他の民族との関係をこのようにした。

現実に影響するのは現在に最も近い歴史だ。

中国の現在に最も近いのは中国近代の悲惨な歴史で、それは中国人に深々とある種の歴史的な烙印を押した、とても敏感で強烈な民族主義という言葉でよく表されるものだ。当代の中国人の「国民性」を読み解くにはまさにここを出発点とすべきで、魯迅らのあの時代に総括した特性によってはならない。



注) 文中の投身自殺事件

自2010年1月23日富士康员工第一跳起至2010年11月5日,富士康已发生14起跳楼事件,引起社会各界乃至全球的关注。

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中国語学習 バブル崩壊 其四 下げ止まり [中国語学習]

2016/3/22

中検志願者数がようやく下げ止まった。
東北大震災前の2/3に収束するのだろうか?
それとも元気良く反発するのだろうか?

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中国語を取り巻く情勢は、
中国国内経済は暗雲垂れ込めたまま、
中国人観光客が依然として伸びている、
全人代など公式な場で主席と首相の不協和音、反腐権力闘争激化
などなど
一筋縄ではいきそうにない。

メディア統制を強めている。
须知,党内权力斗争,固然要比赛左倾,但也会争夺“改革派”的名头,习近平意图控制舆论宣传,但一句“党媒姓党”,却置自己于险境,被贴上“极左”、“保守派”的标签。抢夺笔杆子未果,却落得个左右不是人。

中国党政军领导人习近平一天内走马观花跑了若干主要党媒,
并在晚些时候对外说:党媒必须姓党。他还要求新媒体也要(向中央)看齐。

経済がうまくないと、李首相はますます孤立無援、政策実行能力低下の負のスパイラルへ。
总理李克强照例作《政府工作报告》,逐字逐句地宣读了近两个小时,其间,李流汗,渐至满头大汗,以至于模糊了眼镜片,面色苍白,显得虚脱。可能之一,李有传言中的健康问题,十九大不一定留任。可能之二,李心情紧张,工作压力大,但心理压力更大。在高层,李是唯一的团派人物,孤立无援,又受到习近平的排挤,遭边缘化,被外界评为“历来最弱势的总理”,因而在公共场合下,表现出习惯性的紧张。从前就多次出现,包括主持“九三大阅兵”,只说几句话都显得费劲。

このころの菜の花のように中国語学習者数も元気よく増えてほしい。
どんどん大きくなって、花をつけている。

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二人称変遷 中国語と日本語 [中国語学習]

最大寒波襲来! 2016/1/22

庭の甘夏が寒波で氷り、それが昼とけるなどと繰り返したらいかにもまずくなりそうだったので
素人考えで収穫。植えて4年初めての収穫約20㎏。結構なった。

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実は小ぶりだがとても甘い。

今日は二人称
中国語では「你」、これを日本語では「あなた」で訳す。

「あなた」の漢字は?

パソコンの辞書IMEでは、彼方、貴男、貴女、貴方など2文字で、一文字はない。

「あなた」は何者?
森田良行「基礎日本語辞典」によると、
「あなた」は、彼方かなた、此方こなたのkanataのkが脱落したもので
話し手から隔たったところにいる相手を指す。
とある。

NET上の語源由来辞典では、
平安時代から 離れた場所、時間にいる人を指す
江戸時代宝暦年間から二人称として使われた
という。

二人称について日本語と中国語の差異

中国語
①中国語の二人称は、古代にはたくさんあったが、現代では「你」、「您」だけ

上古時期   「女」と「乃」と「若」。「子」、「君」。「尔」と「而」と「戎」は周から出現
中古時期  「汝」と「尔」
唐,宋 「你」

将进酒 李白
不见黄河之水天上来,奔流到海不复回。
不见高堂明镜悲白发,朝如青丝暮成雪。
人生得意须尽欢,莫使金樽空对月。
天生我材必有用,千金散尽还复来。
烹羊宰牛且为乐,会须一饮三百杯。
岑夫子,丹丘生,将进酒,杯莫停。
歌一曲,请君为我倾耳听。
钟鼓馔玉不足贵,但愿长醉不复醒。
古来圣贤皆寂寞,惟有饮者留其名。
陈王昔时宴平乐,斗酒十千恣欢谑。
主人何为言少钱,径须沽取对酌。
五花马,千金裘,呼儿将出换美酒,与同销万古愁。

日本語

①日本語も古代は二人称代名詞の数が多い。
②特徴的なのは、一人称代名詞が二人称代名詞に使われている、人称代名詞の転用が多いこと。
③人称代名詞はあるが、中国語に比べ実際の使用頻度が少ない、人称代名詞を使う代わりに、職位名を使ったりすることが多い。

時代    第二人称  この論文に詳しい。
奈良時代 な、なれ、い、いまし、おれ、きみ(君)、なびと、まし、みまし、なむち、わけ
平安時代 な、なれ、きむぢ、なむぢ(爾、汝)、まし、おのれ、われ、そこ、わがおもと
鎌倉時代 なむぢ(爾、汝)、おのれ、おれ、おんみ、きみ(君)、ごへん、わきみ、わごぜ、わとの、わぬし、わひと、うれ
室町時代 わごぜ、わとの、ぬし、おぬし、きしよ、くはう、わごりよ、わごれう、あれ、そち、そなた、それ、われ
江戸時代 おぬし、おのれ、わがみ、われ、ありさま、うぬ、おまへ、きさま、おまい、おまいさん、おまはん、おまへさま、おまへさん、おまへはん、おめへ、おめへさん、あなた、おのし、きこう、むし、いづれも
明治以降 あなた、おまへ、きさま、きみ

こんなことらしい。

中国語では人称代名詞の数は少ないが、頻繁に出てくる。
日本語では人称代名詞の数は多いが、職位などで呼び、人称代名詞を使う頻度は中国語ほど多くはない。


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一人称変遷 中国語と日本語 その二 [中国語学習]

唐辛子を作ったが、辛すぎてとても食べきれず。

100本くらいは農薬に使ったが、残りこんなに
少しづつ料理に使っても使いきれない。配るにも辛すぎて受け取ってもらえそうもない。
何かいい利用方法はないものか?

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新聞記事にあった水耕栽培で季節はずれのレタス作ってみた。
今は元気に成長しているが、この先の厳寒に向かってどうなるのだろう。

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日本語の一人称の変遷はこんなものらしい。

平安時代以降 わたくしが使われ、戦後?主流になった。

時代第一人称
奈良時代あ,あれ,わ,わけ,われ,まろ
平安時代あ,あれ,わ,われ,なにがし,おのれ,みづから,まろ,やつがれ (源氏物語には「わたくし」「われ」が出てくる)
鎌倉時代まろ,われ,それがし,わらは,朕,愚僧,わ
室町時代わたくし,おれ,み, われ,これ,こち
江戸時代おれ,わたくし,わたし,それがし,みども,みづから,わし,こち,こちと, わたい,わちき,わつち,おいら,おら
明治以降おれ,わたくし,わたし,それがし,みども,みづから,わし,こち,こちと, わたい,わちき,わつち,おいら,おら


ところで中国語の「私」の意味はで芳しくなかった。もちろん一人称ではない。日本語の一人称「私」には同じ意味がある。

◎ 私 sī
〈名〉
穀物
(古代)姉妹の夫
男女陰部、生殖器
日常衣服

◎ 私 sī
〈形〉
私的な、
秘密の、不正な

◎ 私 sī
〈动〉
不倫する
小便する

◎ 私 sī
〈副〉
こっそり

この中国語の意味から見ると、「私」は中国語伝来ではなく、日本独自なものなのだろう。日本独自の概念い中国の階念がのっかったような気がする。

ほんとうかな?

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