30年ぶりの尾瀬が原(鳩待峠から) [散歩]
武州寄居七福神 [散歩]
今年年始の七福神めぐりは、遠出して武州寄居をまわった。ここの特徴はいずれの七福神も巨大であること。
東急-東京メトロ-東武で横浜-森林公園-小川町-寄居、2時間半。乗り換え2回で到着。便利。
車中暇に任せNETで七福神の由来と各神の持ち物を見てみると、インド人3人、中国人3人, 日本人一人、男6人、女1人の混成チームでその特徴は:
- 恵比寿:日本人、神、鯛。 最澄が台所の紙として祭った。
- 大黒天:インド由来、ヒンドゥー教、米。
- 弁財天サラスバティ:インド由来の女性、ヒンドゥー教、琵琶。
- 毘沙門天:インド由来、ヒンドゥー教、守護神、甲冑。
- 寿:中国、道教、団扇と桃
- 福碌寿:中国、道教
- 布袋:中国、道教、布袋(生活用品)
七福神をめぐり歩く人がいっぱいいると思い勇んで寄居駅駅員さんに様子聞いたが、知らなかった。代わりに十二支守り本尊まいりという短いコースと、観光案内所を紹介してくれた。焦って駅近くの観光案内所で地図をもらう。どうも車で回るコースらしく、徒歩でというと絶句。この地図では近場に見えるが、所要時間もはっきりしない。
案内所には見慣れぬものあり、化物のように大きいゆず、鬼ゆずとか獅子ゆずというらしい。
夕方まで5時間強あるから大丈夫だろうとたかくくって歩き始め。
上記略図では距離感がない。帰ってから地図で調べるとこんなコースだった。どうも20km以上のコース、たびたび迷い、出会った方々の親切なアドバイスでなんとか。ただし歩いていると言うと絶句。徒歩での必要時間聞いてもはっきりしない。完全に車社会、歩く人などいないようだ。七福神ののぼりは寺周辺だけ、それ以外標識無。バス路線もなし。タクシーも走ってない。
- 横浜 8:40発
- ① 寄居 11:00発
- ② 蓮光寺 12:00着 昼飯。迷いながら歩く。
- ③ 極楽寺 13:30着 秩父鉄道の線路を歩けば、荒川簡単に荒川越えられるのに 鉢形城址をみながら。
- ④ 常光寺 14:30着 常光寺でお茶、ご住職のお話をきく。農免道路経由。途中休む場所もなく。
- ⑤ 長昌寺 17:00着 夕やみ迫る。闇夜の中を歩く。道聞きながら。
- ⑥ 常楽寺 17:40着 真っ暗
- ⑦ 男衾駅 18:10着
- 横浜 20:15着
まずは蓮光寺から。広々した関東平野。八高線にのれば便利だが、電車本数が少ないと聞いて歩くことに。寄居から田畑の中を、八高線沿いに1時間弱。 途上寺が多い。ふう。
布袋尊と福禄寿。確かにこれまで見た七福神に比べ大きく、金色に輝いている。境内のテントの中で陽にあたりながらゆったり。
連光寺紹介:
ここから寄居駅に戻り、極楽寺へ。毘沙門天。
唯一の女性、弁財天。
常光寺紹介:
常光寺の入り口。極楽寺への行き方を聞く。どうも荒川が邪魔しているようだ。
秩父鉄道沿いに歩く。先に見えるのは荒川をまたぐ鉄橋。この鉄橋を渡れれば定光寺は近いのだが。付近の人の話では電車はあまり走っていないのだが、さすがにこの橋を渡るのは!
鉢形城公園を通って常光寺大黒天。
境内でお茶(ドクダミ茶)をいただき、住職のお話を聞く。サンスクリット語の碑の講釈、境内の石臼の説明、七福神の経緯など。
これは真言の”大日如来よ、光明を放ち給え!”。斜めに読むのが面白い(下記と比較)。
境内に敷き詰めてあるのは、水車小屋で使っていた石臼とのこと。
その昔、全部の寺でお茶を出していたが、お茶に異物を入れる事件が発生し、寺人がいないときにはお茶を出さないことになったらしい。今回はここだけ。
またこの周辺の道が舗装され野趣が無くなり、ハイキングする人が激減してしまったとのこと。以前は小川町からのハイキングなどにぎわっていたらしい。
常光寺を後にして農免道路を歩く。
この辺りひろびろ。気持ちはいいが、休憩する場所もなく、もちろんバス、タクシーもなく、ひたすら歩く。広大な運動公園、東京オリンピックではブータンの事前キャンプ地に内定したらしい。
農免道路にはこんなものも。薄暗くなっていたが照明、標識などなく、危ない。ぶつけた後がいっぱい。むやみに車が入らないようにするためか。むつかしい!
ようやく長昌寺、夕闇が迫ってくる!寿老尊。
いよいよ真っ暗に。急速に寒く、冷たくなって手袋、首巻などするが、手はかじかみ...。道はわからず、聞く人影もなく、やむを得ずようやくであった車の人に。その後、幸いなことにジョッギングしている人に出会い、常楽寺への道を聞きだせた。
恵比寿尊、鯛(向かって右側の赤い部分)をだかえているのをフラッシュで確認。
日の短い冬にはこのルートは厳しい。平地ばかりなので疲れは感じないが、寒さに負けそう。真夏は真夏で灼熱の太陽でたまらないだろう。やはり花のきれいな春、気持ちいい秋にぶらつきたいもの。
ところでここ寄居には寺が多い。調べてみると43寺あるらしい。ここだけが異常なのか調べてみる。寺の数は埼玉は多いほうでもない。寺はコンビニより多いと言う。寺総数は全国で77,000寺。確かにここでも寺はよく見かけるが、コンビニはそんなにないような印象。
寺密度を見ると埼玉県は10万人当たり31.2寺で全国平均60.9を下回り、関東では平均的。それに対し寄居町の寺数は43、人口31、000人。10万人当たりの寺密度は126になり、埼玉県の平均31.2を大幅に上回る。なぜか?何か歴史があるのだろう。
■歩行4万歩弱のコースでした。NETによると小川町から寄居までの40kmウォーキングコースもあるらしい。そのうち試してみたいもの。
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大山寺もみじ もう少し [散歩]
大山、大山中社から大山寺 紅葉黄金葉の偵察
大山から見ると富士は雲海の中に聳えている。
丹沢周辺の雲海も見事
中社まで降りると神社の紅葉は見頃。
大山寺は?
ライトアップの準備で大わらわ
あと一週間か
高度差は大したことないのに、麓だから遅いのだろう。
山麓の日向薬師は完成まじか
11/20 日曜日に落慶法要らしい。これからにぎわうのだろう。
今のうちに宝物院をみておこう。
日光菩薩、月光菩薩(高さ123cm、木彫りとある)をまじかに見ると、 片足を前にだし、腰を薬師菩薩側にずらしている。
薬師寺のもの(高さ315cm、鋳物)ではもっと鮮明だ。 この形は三曲法というらしい。
三曲法(さんきょくほう)とは菩薩像などが首と腰をひねることにより、頭部、上半身、下半身がそれぞれ異なった角度に表現されることをいいます。
インド美術のトリバンガに由来し、その作例は二世紀あるいはその以前からみられます。
また、中国では七世紀後半から八世紀前半ごろに流行し、日本でも法隆寺金堂壁画の菩薩像などに作例がみられます。
紅葉からずれてしまった。
奈良 山の辺の道と長谷寺サイクリング [散歩]
奈良に立ち寄り、月が瀬や柳生の里などぶらつき、夕方宿探した。
奈良市内では車止められるやすい宿を見つけられず、天理市に来てしまった。
宗教都市天理市は、天理教の施設と信者であふれていたが、人々は親切でいい街だった。
教団本部 3000畳の本堂は壮観だ。
町には教団の設備が整然と、また各地の詰所(宿泊所)がいくつもいくつも。
泊まった宿。町の中心にありながら静かで、内部は設備が整っていてとても便利。
もともとの計画はやめて、天理からの山の辺の道サイクリング散策することにした。
雨模様の中、山の辺の道、長谷寺にむかう。平日と雨模様のせいで歩いている人少なくラッキーだった。
途中であった方の話では、ふつうは人が多く、サイクリングは無理とのこと。
山の辺の道は天理から桜井まで約16km。
歌に詠まれた小山があちこちに点在。
畑、田んぼ、果樹園などに囲まれたこんな道。
途中には俳句短歌など。
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芭蕉は隣県生まれだから、ここにもよく来ていたのであろう。
柿本人麻呂。この時代、中国から輸入した漢字だったのか。
読めない。
こんな意味だったのか。
古墳。関東では見かけないのでめずらしい。柳本、萱生、纒向古墳群などあるらしいが、今回見たのは崇神天皇陵、櫛山古墳、天神山古墳・景行天皇陵
周りが堀になっているのが多い。
崇神天皇陵(3-4世紀、神武天皇と同一人物?)。中国の広大な陵も、日本の古代にはこんなサイズ。
こんなかわいらしい陵も。西山陵。
次は長谷寺へ。山の辺の道桜井終点から数キロのところ。
まず看板を読んでから。長谷寺のホームページには素晴らしい写真がある。
花の寺というが、今は季節外れ。残念。
わずかに、紫陽花が。
終わってしまった牡丹。
咲き乱れていたころを想像しながら、回廊を登る。399段。
本堂。
清水寺と同じ舞台つくり。四季眺めは素晴らしいだろう。
額の字は大悲閤で、観音様を祭る堂に掲げるもので、思いやりを意味するらしい。
観音様公開日だったが、雨に濡れてはいるのがためらわれた。足元におすがりしたかったのだが。
これは公開のパンフ写真借用。
境内には、藤原定家など記念碑。
源氏物語の二本杉。謡曲 玉鬘。
夕顔の侍女右近は、長谷寺近くの椿市の宿で、かつて夕顔に仕えていた人々と遭遇し、夕顔の娘・玉鬘(たまかずら)と念願の再会を果たします。そして翌日、寺の僧に「例の藤原の瑠璃君と言ふが御ためにたてまつる。よく祈り申したまへ。その人この頃なむ見たてまつりいでたる。その願も果たしたてまつるべし」
こんな恵まれた時期のこれたらもっと幸せだっただろう。写真家入江泰吉の所にも寄りたかったが...
雨にはたたられたが、じっくりと寺神社も楽しめた、朝8時から夕方3時までのサイクリングであった。
帰ってから、鎌倉長谷観音との関係をみてみた。十一面薬師観音があること以外直接の関係はなさそう?
関係 | 奈良 | 鎌倉 |
---|---|---|
起源 | 686年 | 736年 |
開山 | 686年道明上人、721年徳道上人 | 736年徳道上人 |
本尊 | 十一面薬師観音 右手に錫杖と数珠、左手に水瓶 | 三浦長井浜から鎌倉長谷寺に。 |
宗派 | (変遷経て現在)真言宗豊山派 総本山 | (変遷経て現在)浄土宗 単一寺 |
備考 | 奈良長谷寺は源氏物語、枕草子など古典に頻出 「はつせまいり」 | |
住所 | 奈良県桜井市発瀬 | 鎌倉市長谷 |
リハビリサイクリング 小石川後楽園と国立近代美術館 [散歩]
朝7時戸塚出発、 品川9時、御茶ノ水で用事を済ませ、
近くにあった小石川後楽園、日中友好協会本館、国立近代美術館などをまわり
2:30に帰路についたが、帰り着いたのはもう6時になっていた。
朝は目的地に一目散だが、帰り疲れとはおやつなどの買い食いやらでスピードが落ちる。
まずは品川泉岳寺で一休み。第一京浜走ってくるとちょうどいい休憩場所。
初めて墓所などながめた。史実と虚構が混然一体となってつづいているのだろう。
御茶ノ水で用事を済ませ、ぶらつく。
東京ドームの隣に徳川光圀の庭があったとは知らなかった。ここはまさにオアシス。
入口
閑散としていたが、内部は日本各地名所と、さらに意外なことに中国の名所が組み込まれた庭になっていた。
たとえば、大井川、木曽川などと西湖の堤。
この時代、日本にとって文化世界は中国だけだったのだろう。しかも中国は偉大な国だった。
いやこの時代には中国という名前はなかった、なんて呼んでいたのか?唐?明?
円月橋
勿論ほかの部分もよく作られている。三渓園などとは一味違う。
花菖蒲が咲き始めていた。もう一週間もすれば見事な菖蒲園のまわりはきっとカメラマンだらけだろう。
これは 「王昭君(*)」という名前の菖蒲。
(*)楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人。似顔絵書きにわいろを贈らなかったので、きれいな似顔絵を描いてもらえなかった。そのために工程の目に留まらず、匈奴に贈られた。
余談ながら、我が家の花菖蒲も同じように咲き始め。
内庭も落ち着ける。
大泉水。周りの高層ビルに囲まれ、異様な雰囲気。
このあと、小石川後楽園に隣接した日中友好協会本部を通りがかり、併設された美術館見ようとしたが、建物周辺に自転車止めるなと言われ断念。東京では自転車はきらわれているのだろうか?
明日からサミットということで、そこでは中国は若干責められそうな雰囲気もあり、ピリピリしているのだろうか?
しかしロシヤも中国も出ておらず欠席裁判で迫力に欠けるが。
本部ビル正面には日本有数企業がサポートしている旨の立派な看板が。
やむなく近くの国立近代美術館へ。ここは敷地が広いせいかどこでもどうぞだった。
美術館は上野など有名でこちらには縁がなかった。展示がとても洗練されていて楽しめる。
しかも入場料も安くとてもいい。おすすめ。
写真自由というのもいい。帰ってからゆっくり楽しめる。
これは岸田劉生の麗子。いいものいっぱいっだがここには載せきれない。
東京の中心部には、サミット警備のため警察官が多く、地理不案内(安い携帯の地図あてにならず)な私はとても恵まれていると思い行く先々で10人くらいに相談したが、いずれも東京周辺部からの助っ人で、このあたりの地理に疎い方々ばかり。熊本はともかく、伊勢志摩、広島には、各地からの助勢であふれているのだろう。
それにしても地理くらいは、理解していないといざというとき困るのでは?
まあこれは私の身勝手な言い分でしょうが。
いいリハビリだった。
小山田緑地 富士山の見え方 [散歩]
藤沢大和サイクリングコース経由で片道30km弱。
町田薬師公園を越えて鶴見川サイクリングコースへ。
まず上流、鶴見川源流を目指したところ、源流は小山田緑地という公園だった。
ここは東京国際ゴルフ倶楽部周辺の緑地、楽しそうなゴルファーを横目で見ながら、Nice Shot!、場所によってはカートとぶつかりそうになりながら緑地内を走る。
トンボ池のとんぼ
トンボ池の水澄ましとめだか
水澄ましの影はどうしてこんなにたくさんあるのだろう? 水上には胴体まわりと細い手足しか見えないのに!
巨大な桑の木?!
桑の実 もう少しで食べられる、残念!
広々した運動場や、見晴らし台など町田にこんなところあるとは想像もしていなかった。素晴らしい。
見晴らし台。
牧歌的。
周辺どの家の庭にもきれいな花が咲き誇っている。
富士山が見える、でも驚いたことにわが家からと違って頭だけ!
東京方面からは丹沢(蛭が岳から大室山)に遮られ少ししか見えないのだ。
看板によると:
わが家からはすそ野まで見えるのに。
湘南藤沢―茅ケ崎方面からならもっとよく見える。
これまで、東京方面からも 我が家からと同じように富士山が見えるものとばっかり思っていた。思い込みとは恐ろしいものだ。
当初計画では鶴見川を鶴見まで下ってから、境川に戻って変える予定だったが、緑地で楽しみすぎ時間が無くなってしまった。
しかしすばらしい緑地と青空に十分満足。
リハビリサイクリングでばら盛開 [散歩]
朝9時ころ家を出て、ゆったりと境川サイクリングコース経由で江の島、稲村ケ崎で昼飯、
鎌倉大仏経由で大船フラワーセンター。5月初めは牡丹が終わり、芍薬がまだ咲き始めず、ばらも数本だったのが、今日はバラ全開。
誰もが色と匂いに酔いしれ、カメラに夢中。
ピンク系が美しい:ピエールドロンサール
もちろんオーソドックスな赤:ルージュピエールドロンサール
スマトラ
白:ピンセスオブウエールズ
春の舞
春の舞
これもいい:ジョルダンドフランス
つるバラ:レオナルドダビンチ
昨年園芸店でみかけほしくなったものだ
芍薬が終わりそうな様子:白玉盤、白い宝石の皿 これは名前にひかれた。
確か李白の楽府「古朗月行」で 前半はたわいないが、後半は血なまぐさい。
古朗月行
小时不识月,呼作白玉盘。
又疑瑶台镜,飞在青云端。
仙人垂两足,桂树何团团。
白兔捣药成,问言与谁餐?
蟾蜍蚀圆影,大明夜已残。
羿昔落九乌,天人清且安。
阴精此沦惑,去去不足观。
忧来其如何?凄怆摧心肝。
芍薬:超天功
芍薬:玉の臺
名前知らない花
ルピナス
はす:温室の中のハスはいつみても幻想的。
リハビリサイクリンのつもりだったが、花に魅了された日であった。
ここフラワーセンターでは当然牡丹が終わって芍薬も敗落期だった。
そういえば李白は牡丹で楊貴妃を讃えたが、一部からはそしっているのではないかといわれた楽府があった。
素直にみれば賛歌だが。
清平調子
其一
云想衣裳花想容,春风拂槛露华浓。
若非群玉山头见,会向瑶台月下逢。
其二
一枝红艳露凝香,云雨巫山枉断肠。
借问汉宫谁得似,可怜飞燕倚新妆。
其三
名花倾国两相欢,长得君王带笑看。
解释春风无限恨,沉香亭北倚阑干。
小田原散歩 早川、一夜城、別荘 [散歩]
この前は、小田原行くのに途中の平塚で迷子になった。
今回はそのリベンジ、2.5時間で無事小田原城到着。やれやれ。
しかし小田原城は耐震工事中。桜花はどこにもなく。
寒波が続いたが、今週は暖かくなるという天気予報を信じて、
少しは花も見えるかと期待していったが、やはり早すぎ。
場内は戦国貸衣装をはなやかに着飾ってはしゃぐ姿のほかには、ひがんさくらだけが異彩を放っていた。
城にあったNPO小田原ガイド協会と箱根ジオパーク推進協議会のパンフ
「箱根ジオパーク ガイド1」 北条氏VS豊臣氏の小田原合戦を知る をもとに走ってみた。
早川港でまず腹ごしらえ。
大した山ではないのだから自転車で登れるだろうとタカをくくって まずふもとの海蔵寺。
ここまではよかったが、そこから一夜城公園まで、急登攀、距離は1300m位なのに私の脚では自転車は無理。途中の看板で休みながら、自転車を押しあげるのが精一杯。
見通し甘かった。
途中は、曽我と同くミカン畑(各種かんきつ類)。ここも急斜面なのにモノレールは見当たらなかった。
汗だくになってようやく公園に。
二の丸や天主あとなど、狭いながらもうまく作ったものだ。
見晴らしすばらしい。
15万の東国制圧軍の指揮官の場所としてはいい。
籠城相手の戦いだから、平地に布陣すればいいはずだが、
秀吉は小山を好きなように加工して、じっくりと小田原城ににらみを利かせたのだろう。
こんな急な登りある狭い城に、淀君、千利休まで呼び寄せたという。
水滸伝に出てくる奇石の山、敵の上がってくるのを上から岩を投げ落として守る山を思い出したが、
ここはそのような山とは違い、闘い無き山城といえる。
観終わった後は、箱根登山鉄道のほうに自転車であっというまに下る。
この山は急斜面しかないのだ。
地図には板橋の別荘を見て行けとある。
ここは明治以来、実業家が集まったところらしい。
松永記念館は休館中だったが、いくつかの別荘を外から眺めさせてもらう。
(松永記念館以外の、別荘の大部分は土日だけ一般公開)
小田原の海岸は、湘南バイパスなどの高速道路のせいで見る影もない。
なぜ広々した砂浜を残さなかったのだろう。
酒匂川河原で休憩し、3時間半の小田原散歩を切り上げる。
やはり桜の季節にもう一度見てみたいもの。
あと一週間だろう。
小田原梅まつり 曽我梅園 [散歩]
天候も回復し晴天。
久しぶりにのんびり。早朝南風だから行はきついが帰りは楽に帰れるだろうと自転車で。
ゆったりと小田原の梅まつりへむかう。
確か昔曽我梅園と言っていたところ。
いつもとは違う国道一号線から新湘南バイパスの下を走り、海岸沿いの134号に出ようと安易に考えたのが間違い。
茅ヶ崎で圏央道沿いに平塚内陸に入って、いつの間にかわけわからず。
三菱樹脂の工場のところで川に出合い、川沿いに行けばいずれ海岸に出るだろうと言ういい加減な気持ちで、川べりをゆくと鳥たちが。
**** ここは渋田大橋のあたり。後でわかった ****
オオバンにしては小さい。クロガモというのだろうか?
マガモのめすか?
けばけばしいからコガモのオスか?
コガモのつがいか?オスメスでこんなにも違うのか。
腹のあたりの細かい模様が見事。
大サギか?
小さな川沿いに鳥たちが集まっている。
大サギがカニと格闘している場面も、意外と俊敏で写真間に合わず。
下流で橋にあった河の名前は?とみると 金目川。
**** 帰ってから地図調べるとこの橋は渋田川、金目川など合流後のもの ****
この下流は花水川になっている。時々通る134号には花水橋があった。
梅園は平日というのに、カメラマン、俳句つくり、家族ずれなどなど結構いる。
売店では梅の加工品とかんきつ類が豊富。
どれもきれい。せっかくの畑を踏み固めていいのだろうかと思いながらも、花の色香に誘われて。
うつくしい。とても写真にできない。
かおりはそれほどでも。
鳥たちも同じ気持ちなのだろう。
ツグミなのか?。
ミカンと梅畑の広がった散策コースをのんびり歩く。
経営的にはふた昔前、ミカンがよかったが、安くなったので今は梅にシフトしているのだろうか?
見晴らしすばらしい。海がきれい。
いたるところ梅林
散歩途中には六本松跡、城前寺(曽我兄弟の墓)なども。
この道は京方面から鎌倉への近道、鎌倉道らしい。
看板の文人のうたなどたのしい。
京の聖護院准后道興 答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は嵐吹くなり
松尾芭蕉 ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし
3時間ばかりのんびり。
梅はこれからが本番だろう。
満足して帰ると、大磯で空はにわかにかきくもり予想だにしなかった雨が。
雨具持たずに来たのを悔やんでも。典型的な不安定な春の天気だ。
30分ばかりふられて、しかも風向きは最悪の方向に。
目の保養といい運動の一日。
寒波襲来のなか円覚寺から鎌倉八幡を歩く [散歩]
大方丈では展覧会、書家金澤翔子展。
従来内部では座禅会くらいだったと記憶してるが、このような展覧や落語などもあってまた来て見ようかという気になる企画が。ステータス保つには、イベントなどで活性化する必要があるのだろう。
この書家なかなか見せる。素晴らしい。
いくつか写真撮らせてもらった。心に光を
断捨離
王羲之の蘭亭序。前に調べた興福寺半截...を書いた人の代表作だ。やはり書道は王羲之の書体から入る物なのだろう。
王羲之の書いた?蘭亭序と比較してみる。唐の太宗が収集したものか?
以下余分なこと調べ始める。
東晋の王羲之(AD303-361)、唐の顔真(709-785)、日本に持ち帰った空海(774-835)。
王羲之と顔真を書いた漫画歴史もある。 1946年三重出身の魚住さんの漫画「書」の歴史と名作手本だ。
王羲之、書聖。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之は各体を能くし、『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている
真卿は初唐以来の流行である王羲之流(院体)の流麗で清爽な書法に反発し、「蔵鋒」の技法を確立した。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の楷書がその特徴である。伝説では、顔真卿が貧しかった頃、屋根裏に染みた雨漏りの痕を見てこの書法を編み出した。
中国では日本の奈良時代より300年も前に書が完成していた。中国文化は素晴らしいものがある。
それにしてもダウン症(*)の娘に才能を花開かせたご両親、特にいまも付き添っている母親の愛情に敬服する。ますます高度化する社会では、一様な教育ではなく、才能を見つけ育てる、そんな教育がいるだろう。
(*)No21染色体 2本のところ3本
(*)高齢出産に多い。知るほどに怖い。
ゆっくり八幡へ、
八幡に向かう途上の食堂にあった金澤翔子さんのサインペンの色紙にも好感持てた。毛筆とは違いいかにも素朴。
途中の建長寺には、五山第一の看板。
五山は第一位建長寺、第二位円覚寺、寿福寺(源氏山東)、浄智寺(北鎌倉)、浄妙寺(八幡裏奥)、すべて臨済宗。
八幡で参拝したあと、寒ぼたん。
昨年の鎌倉7福神めぐりの時にもここを通りがかったが、少し早いと言うので牡丹園には入らなかった。今年はちょうどいいのだろうか?
もちろん5月の牡丹にはかなわないだろうが。
花はきれいだが、寒波急襲のため葉が痛々しい。雪防ぐためのコモかぶせていても、葉の氷結には効かぬのだろう。寒波にやられたので、花を支柱で支えているのかと思ったのは無学のせい。
もともと牡丹の花は重いから支えるのが当たり前らしい。
中国太湖石(蘇州で採れる浸食された石灰岩)周りにも。
池にはカモメ。
敷地内の近代美術館は1月で閉館ということで、見学者が列をなす。
自分の生まれたころに開館したものが、老朽化で取り壊されると言うのは、何とも悲しい。
内部は最近の美術館に比べ確かに狭く、役割果たしたのかも。