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六義 素人の検討【メモ】 [漢詩]

六義(りくぎ)

先日中国ノーベル賞受賞者が詩経とつながりがあることを書いた。
詩経を少し調べてみることにした。詩経の序に「六義」があり、これが中国文学に大きな影響を残したと知り、素人調べ、メモを作った。

Shi_Jing.jpg

中国の詩経における詩の分類は風、賦、比、興、雅、頌の6種で、
賦、比、興は詩の表現方法、
風、雅、頌は詩の体裁であるという。

「賦」は心情をすなおに表現するもの 「比」は詠おうとする対象の類似のものを取り上げて喩えるもの 「興」は恋愛や風刺の内容を引き出す導入部として自然物などを詠うもの 各地の民謡を集めた「風(ふう)」 貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」 朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」

例を調べる。

中山氏のこのページ、前野ら「漢詩の解釈と鑑賞事典」を参考にさせていただいた。

賦:心情をすなおに表現するもの

君子于役 国風の王風

君子于役,不知其期,曷至哉?
鸡栖于埘,日之夕矣,羊牛下来。
君子于役,如之何勿思!
君子于役,不日不月,曷其有佸?
鸡栖于桀,日之夕矣,羊牛下括。
君子于役,苟无饥渴!

わたしの夫はひさしく役に駆り出され、いつまでかもわかりません、いつ帰ってこられるのでしょう
きょうもはや鶏がねぐらに、羊や牛もねぐらへと下りてきます、でも夫は役に、どうしてしのばずにいられましょうか
わたしの夫はひさしく役に駆り出され、いつまでかもわかりません、いつ再び会えることでしょう
きょうもはや鶏がねぐらに、羊や牛も小屋のほうへと下りてきます、でも夫は役に、どうか飢渇なきよう

比:対象の類似のものを取り上げて喩えるもの。 貪婪な皇帝や亭主をネズミにたとえて。
硕鼠 国風の魏風
硕鼠硕鼠,无食我黍!三岁贯女,莫我肯顾。
逝将去女,适彼乐土。乐土乐土,爰得我所。
硕鼠硕鼠,无食我麦!三岁贯女,莫我肯德。
逝将去女,适彼乐国。乐国乐国,爰得我直?
硕鼠硕鼠,无食我苗!三岁贯女,莫我肯劳。
逝将去女,适彼乐郊。乐郊乐郊,谁之永号?

大鼠

大鼠よ大鼠よ わたしの黍を喰うのはやめて
長いことあんたに貢いできたが わたしのことなど心にとめてくれぬもの
さああんたを見捨て 楽しい国へいくんだ
楽しい国へゆけば きっと安らぎの場所があるだろう

興:恋愛や風刺の内容を引き出す導入部として自然物などを詠うもの
桃夭 国風の周南

桃之夭夭, 灼灼其华。 之子于归, 宜其室家。
桃之夭夭, 有蕡其实。 之子于归, 宜其家室。
桃之夭夭, 其叶蓁蓁。 之子于归, 宜其家人。

Taoyao.jpg

桃夭

若々しい桃の木、艶艶したその華
この娘がお嫁に行ったら、きっと明るい家庭をつくるだろう
若々しい桃の木、盛り上がったその実
この娘がお嫁に行ったら、きっとたくさんの子宝に恵まれるだろう
若々しい桃の木、葉はふさふさ
この娘がお嫁に行ったら、きっと繁栄するだろう



風:各地の民謡

上記「桃夭」は国風 周南の民謡である

雅:貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞

文王 大雅

文王在上,於昭於天。周虽旧邦,其命维新。
有周不显,帝命不时。文王陟降,在帝左右。
亹亹文王,令闻不已。陈锡哉周,侯文王孙子。
文王孙子,本支百世,凡周之士,不显亦世。

文王は吾らの上に在り、ああ、その徳は天に通ず。
周は千幾年も続く旧き国、その徳に由りてついに天命を得ん。
有周の徳は顕らかなり、天の命は是れに応ず。
文王の徳は天地を巡り、常に天帝の側に臨むが如し。

倦むことなく勉めし文王、その令名は絶ゆることなし。
天は功を陳べ遂に賜いて周を興す、これ文王の子孫なり。
文王の子孫、本枝百世。
導かれし周の士たれば、徳の顕われを周と共にせん。

この訳はこのページこのページなどを参考につくったもの。

大雅の一番最初に位置する一編、大雅は周王朝の祖先の伝説を語り、創業期の君主の功績を讃える叙事詩風のものである。

頌:朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞

閔予小子 周頌

闵予小子,遭家不造,嬛嬛在疚。
於乎皇考,永世克孝。
念兹皇祖,陟降庭止。
於乎皇王,继序思不忘。[

哀れにもまだ幼いのに、いま先王を亡くし孤立無援。
先王よ、実に偉大な先王よ、長く親につくされた。
そしていま私たちを見守ってくれている。
私は幼くして即位したが、ずっと祖先を敬います。
先王よ、遺志は忘れることありません。


周頌の一編である、父王の死後に新王が父王を霊廟に祭り、悲しみを新たにすると共家国の継承を誓う歌。

参考:

ものの本によればこれは紀貫之の日本の古今和歌集の分類のもとになったらしい。

■そえ歌 (ものによりそえて詠んだ歌、諷喩) ■かぞえ歌 (たとえずにそのまま詠んだ歌) ■なずらえ歌(ほかの物にたとえて思いを詠んだ歌) ■たとえ歌 (思いを自然の風物になぞらえた歌) ■ただごと歌 (正しい世を詠んだ歌) ■いはい歌 (祝い歌、祝賀する歌)    

時代が変遷すると、意味も変わってしまう[ちっ(怒った顔)]
かぞえ歌:ひとつ......ふたつ......



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訓読のメモ ランダム [漢詩]

陶淵明の詩は、古文なので?理解しがたいところがある。

有名な詩人なので解説書はいっぱいあるが、

   中国語で読んでも、唐詩のようにリズムにのれない。
   むしろ日本語漢詩読み下し文のほうがリズミカルに思える。

   それ以外に、以、而、兮などの字の意味が難しい。

読み下し文にしても、以、而、兮などの字が、適切に解釈されてないように思う。



読み下し文は訓読。ということで、まずひまにまかせ訓読を調べる。

●上田正昭「日本の歴史2 大王の世紀」小学館  漢字伝来が少し書かれてる。
●大島正二「漢字伝来」岩波新書
  日本漢字音と中国原音の関係を知るために  これは面白い。
●中村春作「東アジアに漕ぎ出す 訓読から見直す東アジア」東大出版会
  訓読についていくつかの小論文をまとめたもの。訓読の歴史と社会情勢による翻弄など。
  ある人は、訓読は中国の文化にあこがれた日本人が、何とかそれを読もうと編み出したツールといっている。

◆訓読
6-7世紀漢字はいてきたので、その対応日本語をつける。Wiki;

  原文:楚人有下鬻盾與矛者上

  訓読:楚人有下鬻二盾與一レ矛者上  二、一、レ店など追加

  読み下し:楚人に盾(たて)と矛(ほこ)とを鬻ぐ者有り

現代日本語:楚の人のなかには盾と矛とを売る者がいたのですが、

◆音読
仏教関係ではこんな風に説明してる。もともと漢字伝来は仏教経典だった。

■呉音・・・主に百済人によつて伝えられた中国南方系の読み方。隋以前
■漢音・・・奈良~平安時代に伝えられた中国北方系の読み方。唐の長安から。
■唐音・・・主に鎌倉時代に伝えられた江南浙江地方の読み方。唐末から宋時代

 利益をリエキと読むのは漢音、呉音ではリヤクと読みます。仏様からいただくのはリヤクです。 

 食堂をショクドウと読むのは漢音、呉音はジキドウです。お寺の施設はジキドウです。

 唐音は、和尚おしょう行脚あんぎゃ看経かんきん庫裏くり法堂はっとう東司とうす吊灯ちょうちんのように、多くは単語の形で導入されました。

◆訓読の歴史

  時代によって訓読も大きく変わってきている。

◎博士家 奈良平安時代の訓読法
       訓読(漢字の示すものの日本語)と詠み順(返り点など)を追加したもの
◎荻生徂徠 訓読やめて中国語の発音で読もう  
        鎖国中だで長崎から中国情報が入ってきているので、できないことはない。
◎一斎点 簡素な訓読 一世を風靡。
◎国学  明治大正昭和初期の中国蔑視
      中国の発音より、訓読で理解する。
      漢文を大事にしないと国学者の地位が危うい
◎中国流の読み方 戦後:英語と同じように現地の発音重視。吉川幸治。
      今でも訓読する漢詩愛好家がたくさんいる。



元に戻ると、陶淵明の詩には中国のネットでもこのような解説がある。

既自以心为形役 以,介词,使 让。
悟已往之不谏 之,结构助词,取消句子独立性。
知来者之可追 之,结构助词,取消句子独立性。
舟遥遥以轻颺--以相当于而,表并列
问征夫以前路--以,介词,用
引壶觞以自酌---以,表目的的连词,来
眄庭柯以怡颜----同上
倚南窗以寄傲---同上
园日涉以成趣---以,连词,表承接
门虽设而长关---而,连词,表转折
策扶老以流憩---以,连词,表承接
时矫首而遐观---而,连词,表承接
云无心以出岫---以,连词,表修饰
抚孤松而盘桓---而,连词,表修饰
鸟倦飞而知还---而,连词,表修饰
景翳翳以将入---以,连词,表修饰
抚孤松而盘桓---而,连词,表修饰
门虽设而常关 表转析
觉今是而昨非 表并列

中国人も古典には苦労しているんだ。と少しほっとした気持ち。




痩せる [漢詩]

”痩”はやせ馬などくらいかと思っていたが、よくみると杜甫が重陽節に人のやつれるという感じで使っていて、その後宋代にとても多くつかわれているようだ。使いやすくなかなかいい表現。

九日寄岑参
出门复入门,雨脚但仍旧。所向泥活活,思君令人
沉吟坐西轩,饭食错昏昼。寸步曲江头,难为一相就。
吁嗟乎苍生,稼穑不可救!安得诛云师?畴能补天漏?
大明韬日月,旷野号禽兽。君子强逶迤,小人困驰骤。
维南有崇山,恐与川浸溜。是节东篱菊,纷披为谁秀?
岑生多新语,性亦嗜醇酎。采采黄金花,何由满衣袖?


以下の宋詞3首はいずれも色彩あふれた詞で、最後に痩を使っている。

如梦令 秦观
 莺嘴啄花红溜,燕尾点波绿皱。指冷玉笙寒,吹彻小梅春透。依旧,依旧,人与绿杨俱
春を惜しみ、人を思い焦がれる乱れる気持ちというところか。

これとともに名高い李清照の詞:
李清照宋代.jpg

如梦令 李清照
 昨夜雨疏风骤,浓睡不消残酒。试问卷帘人,却道海棠依旧。知否,知否?应是绿肥红

 花の散りゆく海棠をに託して。 

醉花阴 薄雾浓云愁永昼 李清照
 薄雾浓云愁永昼,瑞脑消金兽。
 佳节又重阳,玉枕纱厨,半夜凉初透。
 东篱把酒黄昏后,有暗香盈袖。
 莫道不销魂,帘卷西风,人比黄花

 酒の中に入れた菊の香り。夫のことを思うと身も心も疲れ果て、花をきりとられた菊よりも痩せおとろえてしまった。

李清照のあでやかな着物姿。まるで江戸時代のよう。
李清照詞.jpg




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漢詩の中の歌 [漢詩]

漢詩のメモ【これも百度百科から】

送人游吴 晚唐 杜荀鹤
蘇州に遊びに行く君に送る

君到姑苏见,人家尽枕河。
古宫闲地少,水港小桥多
夜市卖菱藕,春船载绮罗。
遥知未眠月,乡思在渔歌

suzhou.jpg

蘇州はベニスのように家の周りは河で橋がいっぱい。
夜市は賑やかで船には着飾った人がにぎやかに。
遠く離れていてもわかりますよ。君が眠れずにいる月夜、聞こえてくる漁歌に望郷の念にかられていることが。

           注:遥知  王维 《九月九日忆山东兄弟》:“遥知兄弟登高处,遍插茱萸少一人。”


この中に出てくる漁歌。どんな?

晩唐のころ経済の中心になりつつあった蘇州は昔の呉国の首都であり、呉歌があった。
東晋の時代 呉の子夜が詠い始めた呉歌は李白の子夜呉歌が有名。
呉歌の中に漁歌があるということらしい。

吴歌中的渔歌 民歌か?

渔歌子 中唐? 张志和
西塞山前白鹭飞,桃花流水鳜鱼肥。
青箬笠,绿蓑衣,斜风细雨不须归。

译文
西塞山前白鹭在自由地飞翔,江岸桃花盛开,春水初涨,水中鳜鱼肥美。渔翁头戴青色的箬笠,身披绿色的蓑衣,冒着斜风细雨,乐然垂钓,用不着回家。
場所は浙江省太湖の近く。
シラサギが飛び、両岸の桃花は満開で川魚は食べごろ。青い菅笠、緑の蓑、けさめじゃ帰るまでもあるまい。
威勢のいい歌。


ただ海辺で育った人間には、花弁の浮かんでいるところでの漁というのがどうもイメージできない。

どんなメロディかな?水の都で聞きたいものです。

でもどちらかというとベニスの舟歌のほうが?!

蚕婦のうた [漢詩]

急に寒くなって、メジロやすずめが山茶花に、柿にといそがしい。

豪華なものを作るのは庶民(蚕婦)。それを使って飾り立てるのは貴族。そんな詩。

唐朝から現代まで詠われてる。
大手前大学の丹羽先生のメモでは中国唐代 杜甫、白楽天 、韓国、日本と伝わっている。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007645052

晩唐の杜牧の末裔と言われる杜荀鶴も詠ってる。

杜荀鹤的《蚕妇》
粉色全无饥色加,岂知人世有荣华。
年年道我蚕辛苦,底事浑身着苎麻。


中国で最もポピュラなのは
蚕妇 [宋] 张俞
昨日入城市,归来泪满巾。
遍身罗绮者,不是养蚕人。
蚕婦.jpg

日本では紡績の女工哀史あるが、蚕婦の嘆きは聞かない。
私の田舎の家には、戦前はやっていた養蚕の名残の品々があり、
畑には使い道無い桑の木が植わっていた。
子供心には絹より丈夫で安いナイロンに、どんどん変わってゆくその変化がまぶしかった。


乱世の晩唐 [漢詩]

再经胡城县 杜荀鹤

去岁曾经此县城,县民无口不冤声。
今来县宰加朱绂,便是生灵血染成。

杜荀鹤(约846~906),唐代诗人。字彦之,号九华山人。池州石埭(今安徽石台)人、杜牧の妾の子。
朱全忠の下で翰林学士、主客员外郎。

昨年その町に行った時、不当な扱いに対する不平不満を口にしない民はいなかった。
今年いってみると県令は昇格し赤い服になったが、それは人民の血で染め上げたものだ。

   赤い服:当時の官位四品は薄いピンク、五品は濃いピンクの制服
官服.jpg

この時代は唐滅亡(907)、黄巣(875-884)、朱全忠(852-912)の悲惨な時代。
地方の役人の横暴は毛沢東大躍進時の飢死と同じか、もっとひどかったのだろう。中国の伝統。
  
  流民:税払えないので逃亡。残った民に負担させる、さらに逃亡。残る民は飢死。
  大躍進:役人が稲を密植させたら10倍も取れたと報告し相応の税金を上納、役人はそれを手柄に昇格。
  人民公社から出たら食料が手に入らないから逃げられず、その地区の農民は食べるものなく飢死。
  日本人は血税を想像するが、中国では本物の血だろう。なぜ幾たびとなく繰り返すのか?

黄巣の軍は長安沒落後、糧食に乏しく、毎日沿道の百姓數千人を捕へ、生ながら之を臼に納れ、杵碎して食に充てた。この時討手に向つた官軍は、賊軍を討伐するよりも、彼等の糧乏しきに乘じ、無辜の良民を捕へ、之を賊軍に賣り付けて金儲をしたといふ。(桑原隲藏 支那人の食人肉風習)
当時長安では人肉は銭500。超えているか痩せているかで値段に差があった。その後あるところでは人肉一斤銭100、犬一斤銭500で犬のほうは美味しいらしい(寺尾善雄 乱世と庶民) 

路上や川岸に死体が転がっている。
聊斎志異などには、この状況の物語があるのだろうか?

揚子江 [漢詩]

漢詩教室メモ

淮上与友人别 郑谷(851-910)
扬子江头杨柳春,杨花愁杀渡江人。
数声风笛离亭晚,君向潇湘我向秦。

揚州での友との別れ
揚子江の岸辺に柳が弱弱しげに風になびく春、柳の花が飛びかい川を渡る人は憂いに沈む。笛の音がとぎれとぎれに別れの宿の夕方の風にこだます。君は潇水湘水地方へ、私は長安へ。

扬が3個
揚子江:揚州付近の長江 海外では長江全体を揚子江と誤って呼んだ。
杨柳:挽留 「引き留める」
愁杀:愁煞

潇水湘水:经过长江
长安:在扬州经运河到达汴州(今开封),由汴州走陆路到达长安,需要60多天。(遣唐使の記述)
  揚子江の南岸から北にわたり大運河を北上ということかな?
隋運河分布図.jpg

  長安に行く旅人は大運河-淮水-大運河-開封-徒歩
    洛陽には穀物集積地があったが、そこから長安までは陸路、大運河(荒廃)など苦戦していたようだ。
    黄河を船でさかのぼることはしなかったのだろうか?

古代の個人旅行は決死の道行だったのだろう。詩人たちの場合多分何人かのお供との集団旅行だったのだろう。




銀のフック [漢詩]

漢詩挑戦してみる。

浣溪沙 北宋 秦观
漠漠轻寒上小楼,晓阴无赖似穷秋。淡烟流水画屏幽。
自在飞花轻似梦,无边丝雨细如愁。宝帘闲挂小银钩。

うすら寒いなか小さな楼閣にのぼる。 暗い明方は秋の終わりみたいでいや。外は淡い霧のなかにさらさら流れる小川、部屋にはいると屏風だけがひっそり。
玉石をちりばめた華麗な簾をあけ銀の掛け金でとめると、外は花が自在にひらひらと舞いまるで夢の世界、しかし小ぬか雨がしとしとふるのはまるで憂いのよう。
あの人のいない朝は...というかんじかなあ?

最後の句の意味は?一人の憂いをPOPSふうにうたうようなものか。


憂いをうたったよく似たものを、探したが?
紅顔の美少年が夕闇にという詩はこれ。

鹊踏枝 南唐 冯延巳
谁道闲情弃久,每到春来,惆怅还依旧。
日日花前常病酒,不辞镜里朱颜瘦。
河畔青芜堤上柳,为问新愁,何事年年有?
独立小桥风满袖,平林新月人归后。

風情心をなくして久しいのに、やはり春が来るたびに憂いに沈む。
憂さを晴らすのに花を前にして酒びたり、鏡に映る顔が衰えるのもかまいはしない。
川面の青々した柳のようにまた新しい憂いがおこってくるのはどうして?、
別れた後、森の新月の下に立つと袖には風だけがいっぱいに。誰もいないさみしい春の夕。
    村上「宋詞の世界」P72参照

書いていて思い出した。これは別人の歌になっている。 北宋 欧陽修
紅顔.jpg

こちらが有名だった!
柄にもなくこんな詞、それにしても訳はもうちょっとなんとかしたいもの。