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当世中国青年階級分析 中国の将来を背負う人材はどこから? [中国語学習]

梁暁声 (2017) 中国人的人性与人生 P92 当今中国青年階層分析 

 外は酷暑、熱中症を避けて家にこもっていて、面白そうなタイトルにひかれつい読んでしまった。実例が多いので面白い。なお先日亡くなった人権活動家は梁暁

   原文はNET上で読める。例えば、ここで。

この文章は2011年頃「中国社会各階層分析」で発表されたものらしい。日経テクノロジーで永井氏が紹介している

 まず前提データ

人口データ(中国政府統計2015)

 総人口13.7億   

都市人口7.7億人(56%) 

農村人口6億人(44%)

青年人口(20-39)  4.26億人   ただし中国の青年年齢定義は18-39

■階級人口 近年市中に流布されているものだが一般性はない。

中産階級 家庭年收入17万元至45万元(2016年 約300-800万日本円、於北京上海広州深圳、これは全国平均の2)で家アリ、金融資産あり 

   2.5憶人 全人口の18%

都市平民階級 5.2億人 全人口の38%

■大学入試の不公平

本文章中に出てくる北京上海では大学入試試験に苦労しないと言う表現の根拠:

北京上海に住む受験生は優遇措置があって、他の省、都市居住の受験生より低得点でも入学できる制度。

 

筆者は当世中国青年を以下の4階級に分類している。

1.  お金に困らぬ「富二代」 資産2億元(35億日本円)以上 1万人強 

    尊敬に値する人材を輩出する可能性は少ない。

 

2.  中産階級の子女 全体の18%    

    中国の未来文化を創造する人材がいる。

3.   都市の平民層の子女 全体の38%      生活に汲々

4.   農家の子女     全体の44%      現状妥協

 IMG_2691梅雨の三浦房総.jpg

 ここからは拙い訳文

お金に困らぬ「富二代」

 新聞によると中国には現在資産が2億元以上の富豪が1万人余いて、彼らの子息を南方では「二世祖」と呼ぶという。巷には彼らの話題があふれ、いつも興味津々だ。その種の新聞は、彼らのさまざまな状況、主にお金で手にしたしゃれた生活を、行間に嫉みをにじませつしつこく書いている。しかし「二世祖」は中国の人口13億数千万に対し1万人、当代青年4億数千万に対して1万人、とても小さな比率でまったく普遍性なく、また彼らが金持ちの「二世祖」だからと言って、マスメディアが特別に注目する意義はないのではないかと思っている。彼らの挙動が社会に劣悪な影響を与えたら、譴責と批判、彼らが社会に対し有益なことをしたら褒め支持する、このような報道原則に基づいて彼らに対応すべきだ。そうでなければ彼らを無視してもいいだろう中国には注目すべき群体がとても多く、「二世祖」がどんな名車を運転とか、どんなペットを買ったとか、第何回目の恋愛相手は暇で何もやることがないとか報道するのはばかげている。マスメディアは社会の「複眼」だ、過度にスターを追っかけるのはうんざりで、いつもわけもなく「二世祖」に注目する、そんな「複眼」は重たい病気にかかっている。

上述の「二世祖」があるために、所謂「富二代」の定義はどうしてもあいまいになる。「二世祖」を含まない「富二代」はふつう次のような青年とされる---家は豊かで、夢はとても簡単に実現、例えば海外留学、車や家の購入、結婚など。彼らの消費傾向は往々にして高級で奢侈である。「二世祖」と同じように彼らは往々にして名車を所有する。彼らの家庭の資産は有形、灰色部分に分けられる:有形資産はわかるが、灰色資産ははっきりしなく、彼らの父母でさえわからない。私の所のある大学院生がかつて弱弱しく私に言った「先生、人と人の差はとてつもなく大きい。私のような学生は卒業後省都に帰って暮らそうとしても、家はため息の出るほど高い。それなのに知り合いのある種の学生は、恋愛した途端双方の父母が金を出し合い北京に彼らのために居室が3室の家を、それも各人に一戸つずつ買い与えた。さらに結婚となれば彼らにいい車を買い与える。北京の家はずっと高いのにあの人たちは高いのを気にかけない!」 このように「ある種」或いは「あの人たち」は即ち「富二代」なのだ。

私はこんな例も知っている。娘が海外留学し、スターになる夢が芽生えどうしてもTV俳優になりたかった。そこで母親が娘を連れて帰国し、あちこちつてを頼り、ある劇団の監督と知り合いとなり、劇の中のちょっとした役につけてくれたら、お金は一銭もいらない、逆に劇団に数十万元寄付するといった。監督はその娘には俳優の素質はないと言うと、それなら私が娘を助け、娘に思う存分やらせなければと言った。 その娘は疑いもなく「富二代」だ。

このような「富二代」の人生の辞書にはふつう「金がない」という字はない。彼らの家族特に父親は、或いは私企業の社長、或いは国営企業高官、実権を把握した役人だ。もし役人なら、彼ら自身でもその灰色資産がどれだけかはわかっていないだろう。彼らはお金に困らない生活を楽しみつつ、「二世祖」を横目に見て、彼らより自分たちのほうが生活様式、消費様式ともに余裕があり、常に彼らに負けないことを喧伝している。

国営企業高官や実権を持つ役人を父母とする青年にたいして、社会全体が深い関心を持っていなければならない。この種の父母の中には、明らかに弊害ある現体制の利益をもっとも享受し無意識に体制を擁護する人が少なくないからだ。このような親たちは社会民主、公平、正義の推進に対し不安、反感をもつ。このような父母の「富二代」が中年になり有力な或いは強力な発言権を持つと、かれらが頼みにしている親密な利益集団の立場に立ち、本能的に保護作用を発揮するか、またはそれほど私心なくその利益集団を超越して社会の公平、平和、正義の立場に立ち、社会の良心に符合した発言をする場合もあり、括目して待てばいい。もし彼らに後者のような中年になってほしいのなら、今から公平、正義など文化自覚を活用して、彼らにヒューマニズムの影響を受けさせなければならない。しかし文化的ヒューマニズミの影響力(文化的人文思想)について言えば、私の見るところ、中国では、彼らに対する影響力はわずかであるだけではなく、広範な青年に対してもやはり落胆させられる。したがって、私が将来の「富二代」を見る目は、全体的に鬱々としたものがある。彼らの中から社会的良識を備えた尊敬に値する人を輩出する可能性を排除はしないが、少ないと思う。

 

中国では、上述の「富二代」の人数は、だいたい12千万より少なくはないだろう。これには同様に十分財産のある人や、文芸娯楽界で特別成功した人の後代は含んでいない。しかしその人数は限りがあり、個別に論ずる意味はない。

 

中産階級の子女

世界のどの国でも中高級知識人家庭は中産階級の不可欠な部分で、少なければ1/3、多ければ半分を占める。中国は特殊で、20世紀80年代以前は少数の高級知識人を除くと、一般の大学教授の生活水準は、町の平民層の生活水準より少し高かったが、実際にはあまり高くなかった。20世紀80年代以降彼らの生活向上幅は大きく、彼らは改革開放の直接の恩恵を受けた群体であることは争えない事実である。住居条件は言うに及ばず収入状況から見ると、知識人家庭の生活水準は一般的にサラリーマン階層より高い。他にも中産階級にはいれそうなグループがある。最低のグループでも生活水準はいわゆる小康を越えている。

しかし2009年以来の住居価格の暴騰で、中産階級の生活状態は脅威にさらされており、彼らは心理的に深い傷を負っており、挫折感を持っている。私の語言大学の同僚を例にとると、子供の結婚の資金援助のために住居を買い、二三十年来の蓄積を使い果たしただけでなく、息子も百万元の借金を背負い、所謂「房奴」になったが、購入したのは八九十平方メータの狭い住居だけだ。ほかにも夫婦両方が五十数歳の大学教授は、二十数年教壇に立ってきて、手許に数百万の預金はあったが、息子が結婚年齢になり、住居価格が猛烈な勢いで上昇するのを目のあたりにして、どうすればいいのかわからず、いたずらにどうしたらいいんだと叫ぶしかなかった。彼らの子供は皆高等教育を受けた青年で、大学の学歴、修士、博士があるのだが。このような青年は結婚後奮闘して中産階級になるはずだったのだが、今その可能性は大幅に低下し、夢は遠のいてしまった。彼らが順調にホワイトカラーになるのには何ら問題はないが、ホワイトカラーはしょせん中産階級とは違う。中産階級はつまるところこのような「産」がある階級と言える。少なくとも人生の終末に自分が所有権を持つ住居があるべきだ。たとえ結婚後夫婦二人が各自給料万元でも、2居室の住居を買おうとすれば一部父母に立て替えてもらったとしても、百数十万元の借金が残る。毎年十万元返しても、返済には十数年かかる。また彼らが就職し月給が万元になるには、給料が隔年上がったとしても十年かかる。だから前後を加えると二十数年になり、彼らは五十になってしまう。五十歳になってようやく2居室住居を所有し、やっとのことで不動産を所有できたとしても、ただの「小康家庭」で、「中産」ではない。おまけに彼らは父母になる。いったん子供ができればその部分の支出が多く、その心配も無視できない。それで自分に所有権のある住居を持つ目標は、彼らから遠くなる。もし双方の父母のうち1人甚だしきは両方同時に、あるいは前後して難病にかかれば彼らの家庭は推して知るべしだ。

幸い、私の理解しているところでは、この種の青年は知識人の後代なので、知識出身といういいイメージを盾にして貧富差のとても大きな社会の強烈な圧力に対し闘う。彼らは比較的楽観的だ。彼らの普遍的な主張は、今を生きる、今をしっかり捉まえる、今を楽しむこと。もっと問題にしているのは、今現在がいい味わい、いい感覚かどうかということである。この一種将来をおろそかにして瞬間を楽しむ生活態度(カルペディエム)、そんな態度を見る度に父母たちは首を振り振りため息をつき、自分たちのほうがもうすこし賢かったと思うのだった。さらに彼らはだいたい今の青年たちと同じく晩婚主義だ。内心ひそかに独身主義も彼らの中には少なくない。正常年齢で結婚するのは約三分の一、「ディンクス」主義者はいくらでもいる。

今の中国の青年のなかでも、彼らは特に精神的な享楽をとても重視している。彼らはファッションを好み、比較的精細なものを好み、往々にして高雅である。彼らは都市文化の主力消費者で、文化に対する要求は厳しく、ある時には辛辣である。彼らのうち一部は一生赤貧だが、落ちぶれると言うほどではなく、草の根に沈むわけでもなく、弱者と言うほどではない。物質生活面で富かになるのは彼らにとって簡単ではない。かれらは中国の精神貴族になりたいと考えている。実際彼らにはYappiの特徴があり、精神貴族の特徴がある。

どんな国にも精神貴族はなくてはならない。まったくいない国の文化は取るに足らない。たとえアフリカの民族部落であっても、彼らの文化楽しむ精神貴族がいる。

彼らの中に、中国未来の高品質文化を守る人間が少なからずいる。この種の文化を守る人間は彼らの中からだけ出現すると言うのではなく、必然的に彼らの中から発生し、彼らの中から発生するのが必然的かつとても多いと言いたい。

 

都市の平民層の子女

この階層出身の今の青年で、特に高等教育を受けた者の内心はもの悲しく痛ましい。彼らの父母、子供の大成を望む父母、この類の父母は大抵不遇な人生を経験しているので、青年時代にいい生活をしたいと言う願望が強かったが、その夢が社会にでて粉砕される。この夢がまだ胸の奥深くにあり、時々それが光を放つ、まだその願望が残っているのだ。その人の身になってみれば確かに心が疼く。これまで中国の都市の平民の生活は農民に比べ確かに良くなっていて、農民の羨望の的である。しかし現在農民に比べいいかどうかは定かではない。現在都市の平民は少なからず裕福な農民を羨んでいる、少なくも農村の別荘のような二、三階建ての家を見るととても及ばないと嘆息する。しかし農民が彼らと変わりたいといっても、必ず首を振って断る。彼らはもう何代も都市に根付いており、植物でも人間でも水と土が合わないかもしれず移動は冒険だ。人の場合、水と土が合わないからと言って戻ることはできず、痛みは強くなる。

「暮らしは、子供のできによるんじゃないの」これは都市の平民の父母の間でのよくある会話で、唯一希望を託すのは子供で、いい暮らしをする唯一の手がかりで、家庭全体が生まれ変わる希望だ。ゆえに子供とは、運動のコーチと選手、ボクシングコーチとボクサーの関係である。彼らの見方では、社会はまさに大きな競技場である、これは基本的に事実、少なくとも今中国では疑いもない事実だ。だから彼らは重々しく、厳粛な表情で子供に言う「こどもや、我が家の生活はすべてお前にかかっておる」都市の平民出身の青年は、小さい時から大きくなるまで、このような話を聞いたことない子が何人いるだろうか?

こんな話と十字架にどんな差があるだろう?言外の意は お前は有名大学に受からなければならない、有名大学を卒業してようやくいい仕事にありつける。いい仕事にありつけば出世するチャンスがある。出世した子を持つ父母だけがお前のことを人前でひけらかすことができ、幸福で尊敬される生活を送れる。そうなってこそお前は父母の期待に背かず……言葉には出さないが父母はそう思っているんだ。

そこで子供は理解する……父母の要求は私が社会のレースで困難を乗り越え金賞金ベルトを獲ることだ。そこで彼らにとって、小学校から大学まで学校は競争の場や闘争のリンクになる。北京や上海を除いて、どの省のどこの都市でも大学に合格するには終日骨身を惜しまず勉強しなければならず、有名大学に受かるにはもっと容易ではない!ふつう規則では有名大学に受かるにはまず重点小学校に入らなければならない。平民家庭の子供にとって重点小学校に入るのは有名大学に入るのと同様に、甚だしきは有名大学に入るより難しい。有名大学に入るには成績が良ければいいが、重点小学校に入るには賛助費が要る。平民でなければ耐えられる。往々にして借金して払ったとしても、コネがみつからないときも。したがって家柄を変えると言う重々しい十字架を背負った平民家庭の子女は小さい時から霊魂を中国教育制度に売渡し、試験の得意なロボットと化している。しかしたとえ重点小学校、重点中学校、重点大学に入り最後に龍門を跳び越えたとしても、今ようやく龍門あたりにいるが、まだ単に小魚でしかなく、社会に踏み入れると、仕事を探すのは普通の大学よりましだが、給料は大して高くないない。修士、博士も大差ないので一層落ち込む。

その他に普通の大学だけに合格した場合、子供は大学入試試験が終わると父母に申し訳なく、さらに大学を卒業するとさらに申し訳なく感じる。給料の一部を月月父母に渡し、自分が使えるのは少ない。父母に渡さなければ、良心が許さず、メンツが立たない。生まれ育った町にいれば、結婚を考えなければ、一年一年と実家を頼って住み、毎日父母のを食べる、「老人をかじる」とは言わないが実際上かじっている。実家から離れている場合、自分が「蝸牛」の「アリ族」になってしまったことを親に言いたくはない。農村の貧困家族の子女と同じように彼らは中国の不幸な、苦しんでいる子供たちだ。

中国はこれから大々的に国際イメージプロジェクトに数千億元を浪費するが、少し節約して、この苦しんでいる子供に使ったらいい。これは正しいことだ。

彼らのうち大学に合格した者は、ほとんどが意志の固い青年。

彼らのうちには心理的問題が出てくるものもいる、彼らへの関心、暖かさがなければしばしば自殺、自虐行為、他人を傷つけるような悲惨な事件をひきおこす。しかし彼らは全体として危険な群ではないが、心のうちに最も鬱積し途方にくれている群であり、悩み多く、痛み多く、苦しみもがいているにもかかわらず救いの手が差し伸べられていない群である。

彼らの心は感情に敏感だが、世渡りは無関心だ。彼らを援助する人にたいして、彼らの心理は感謝にあふれているが、往々にして自尊心を傷つけられた痛みを覚え、ときに感謝を表わさず、冷ややかさをよそおう。これが彼らを替わった性格と思わせる。こんな時には彼らは内心もつれ苦しみにさいなまれている。彼らは同情よりも公平を望み、優しい付き合いよりも心からの友情を望む。

かれらと心からのつきあいする人はだれでも、強力な信頼心を持っている、彼らは主人に忠実な犬のようにその友情に忠実だ。彼らのそんな友達は付き合いにくいが、付き合い始めると一生の友となる。一般に彼らは軽々しく或いは先に友情を裏切ることはない。

彼らはまるでジュリアンのようだ。ジュリアンとの違いはあの大きな野心。事実上彼らの人生の願望はとても現実的で、簡単に満足でき、とてもありふれたものだ。しかし彼らにとって、「一回でもチャンスをくれ」これが彼ら心の中でひそかに何遍言ったかしれない言葉だ。しかしまだ一つ問題がある。この言葉はチャンスをつかんだ人に大声で話す必要があるのだが、彼らは往々にして同時代人に比べ話す前の心理負担が大きい。

 

彼らのうちの意志の強いものが、将来不屈の個人のバックアップの下奮闘し世の人の偶像になるか、社会貢献、ヒューマン思想力十分な有数な人物になるだろう。

ヒューマニズムは通常豪華な生活する人とは無縁である。トルストイ、ユーゴは例外で、彼らの人生を調べると、貴族出身だがかつて一度も豪華な生活を誇りにしてはいなかった。

農家の子女

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家が農村にある大学生、あるいは就職した者、家が比較的裕福で、南方のように山紫水明で環境がよく交通の便のいい農村で、大都市で戸惑いを感じた者は、都市の平民青年より少ない。これは彼らの農民父母の彼らに対する要求は高くはない。彼らが都市にしっかり根を張り一家を構えれば父母は喜ぶ。もし彼らが都市に住みにくく、省都に帰って働くのなら、父母はやはり喜ぶ。彼らは無駄に大学に入ったのではないと考える、たとえ彼らが近くの都市に帰って仕事したとしても、父母は少し残念と思うが、すぐに残念というのは過去のことになる。

とても少ないケースだが、大学に入った子女に「我が家はお前に期待している、お前で我が家の先祖代々の農民という運命を終わりにしてくれ!」という農民もいる。一人の高等教育を受けた子女が必ず完成できる使命ではないことは彼らも知っている。彼らは子供に高等教育を受けさせるがそれは単純な発想だ、子女が高等教育を受けて生活がよくなるなら、教育を受ける価値があると言う考えだ。中国の農民はおおかた子供が親に報いることは期待していない。彼らの子女に対する期待より土地への期待依頼の方が強い。

したがって幸運にも比較的豊かな農村、村、小さな集落に住み家がある者が、大都市に出て学び、大都市に漂泊していたとしても、都市の平民学生青年の精神状態に比べ、いくらか気楽なところがある。彼らには退路、我が家がある。家庭が睦まじければ、門は永遠に彼のために広く開いていて、家族はいつも彼らの帰るのを歓迎する。だから仮に彼らの都市での住居がコンテナだったとしても、南方ではすでにコンテナを彼らの住居とする現象があるのだが、彼らは往々にして歯をくいしばって耐えている。彼らが大都市にとどまって苦しみながら奮闘、甚だしきは何年大都市を漂流してたとしても、これは完全に彼ら自身の選んだ道であって、家族からの期待による圧力ではない。もしも彼らが本当に働きつかれれば、家に帰り休養、しばらく調整する。「おさなごが花にむらがる蝶をつかみ、みんなは木につるしたブランコをこいで」(訳注1)、「松が花の小道をふさぎ、雨の中で花が窓の格子に」(訳注2)のような家に帰れる。このような家の戸口に座り、「竹馬を取り合って乗り、隣の花をこっそりとる」など昔のことを思いだす、これはまさに療養に等しい。たとえかえらなくとも、このようにちょっと考えるだけで疲れは吹っ飛ぶ。彼らが学生、会社員、アルバイトであったとしても精神的達観で支えられている。ある種の達観であり、楽観とは思えない。達観できると言うことは彼らにとって素晴らしいことである。

彼の故郷が農村或いは辺鄙な貧しい農村なら、大学の学生か、大都市の就業者か季節アルバイト工かで、その心境はことなる。

季節工青年はふつう最終的には家に戻るのだから、季節工が家に帰ると、たとえ年一度の祝日の帰郷であったとしても、心配が募り、楽しい気持ちはない。

大学卒業生が帰っても意味はない、彼ら自身、そして彼らの家庭にとっても意味はない。省都でも、町でも、大学卒業生に見合う仕事はないので、彼らは省都や村にも戻るのは難しい。農村には直接大学卒業生を採用するような村の官吏はないのだ。だから農村出身の卒業生が「あきらめない、絶対にあきらめない」で都市に残るというのを都市や社会は理解しなければならない。

 

もっといい時代だ 

最悪な時代だ

 

この二句はCharles John Huffam Dickensの小説「双城記A Tale of Two Cities」の冒頭の言葉。それはつまるところどんな時代かは、いちいち書いてない。Dickensはいい時代を前に、悪い時代を後にしているが、これはそんな時代を肯定していることを意味する。以下に彼の書体を借りて言えば:

当代の中国青年、彼らにはみんな失望させられる。

中国当代青年、彼らは中国の未来を託せる青年だ。

彼らには失望させられると言うのは、中年の目から見ると彼らはたくさんの病を持っているようみえる。諸病のうち一人っ子のあまえ、傲慢、自己中心という悪い習性、娯楽を追究し教養を軽んじ不真面目な態度は不快である。

彼らには中国の希望を託せる、彼らは1949年以後真摯に人間性を発露した年代で、忠実従順意識の遺伝子が最も少なく、本当の意味で生まれ変わった年代だ。彼らの目には世界は本当に平らで、彼らの思想の底部には民主、自由、人道主義、社会公平正義の尊重と追及があり、それ以外のいかなる年代よりも本能的で強烈である。

まだ彼らの影響力は顕在化してないが、彼らが全体として一旦声を挙げたら、十中八九進歩思想同調者や公明正大な人たちになるだろう。

IMG_2685ゆり.jpg

    (訳注1)

寒食        王禹偁
    今年寒食在商山    山里風光亦可憐 稚子就花拈蛺蝶    人家依樹系秋千
  
   郊原曉綠初經雨    巷陌春陰乍禁煙 副使官閒莫惆悵    酒錢猶有撰碑錢
   

(訳注2)

《蜀中杂诗二首》 阎尔


江干琴史購零星,金石敲殘指血靑。羅漢松遮花裏路,美人蕉錯雨中櫺

繅絲錦迎蠶虎,過峽賨船祭鼈靈。題罷雪樵行樂卷,可憐宦亦漂零。

仲冬天氣似花朝,巖壑蒙茸翠未彫。半截雲藏峰頂墖,兩來船斷雨中橋。

漁邨烏柳圍金橘,僧閣香枏蔭鐵蕉。地接蕃駹人習苦,荒山紅葉女郎


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