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寒波襲来のなか円覚寺から鎌倉八幡を歩く [散歩]

若いときには北鎌倉から鎌倉一円をまんべんなく歩いたものだが、最近はなんとなく円覚寺などは見る機会がなかった。久しぶりに円覚寺から、鎌倉八幡を歩いてみる。2016/1。

大方丈では展覧会、書家金澤翔子展。
従来内部では座禅会くらいだったと記憶してるが、このような展覧や落語などもあってまた来て見ようかという気になる企画が。ステータス保つには、イベントなどで活性化する必要があるのだろう。

この書家なかなか見せる。素晴らしい。

いくつか写真撮らせてもらった。心に光を
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断捨離
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王羲之の蘭亭序。前に調べた興福寺半截...を書いた人の代表作だ。やはり書道は王羲之の書体から入る物なのだろう。
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王羲之の書いた?蘭亭序と比較してみる。唐の太宗が収集したものか?
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以下余分なこと調べ始める。

東晋の王羲之(AD303-361)、唐の顔真(709-785)、日本に持ち帰った空海(774-835)。

王羲之と顔真を書いた漫画歴史もある。 1946年三重出身の魚住さんの漫画「書」の歴史と名作手本だ。

王羲之、書聖。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。

王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之は各体を能くし、『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている

真卿は初唐以来の流行である王羲之流(院体)の流麗で清爽な書法に反発し、「蔵鋒」の技法を確立した。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の楷書がその特徴である。伝説では、顔真卿が貧しかった頃、屋根裏に染みた雨漏りの痕を見てこの書法を編み出した。

中国では日本の奈良時代より300年も前に書が完成していた。中国文化は素晴らしいものがある。

それにしてもダウン症(*)の娘に才能を花開かせたご両親、特にいまも付き添っている母親の愛情に敬服する。ますます高度化する社会では、一様な教育ではなく、才能を見つけ育てる、そんな教育がいるだろう。

(*)No21染色体 2本のところ3本
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(*)高齢出産に多い。知るほどに怖い。
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ゆっくり八幡へ、

八幡に向かう途上の食堂にあった金澤翔子さんのサインペンの色紙にも好感持てた。毛筆とは違いいかにも素朴。

途中の建長寺には、五山第一の看板。
五山は第一位建長寺、第二位円覚寺、寿福寺(源氏山東)、浄智寺(北鎌倉)、浄妙寺(八幡裏奥)、すべて臨済宗。

八幡で参拝したあと、寒ぼたん
昨年の鎌倉7福神めぐりの時にもここを通りがかったが、少し早いと言うので牡丹園には入らなかった。今年はちょうどいいのだろうか?
もちろん5月の牡丹にはかなわないだろうが。

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花はきれいだが、寒波急襲のため葉が痛々しい。雪防ぐためのコモかぶせていても、葉の氷結には効かぬのだろう。寒波にやられたので、花を支柱で支えているのかと思ったのは無学のせい。
もともと牡丹の花は重いから支えるのが当たり前らしい。

中国太湖石(蘇州で採れる浸食された石灰岩)周りにも。
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池にはカモメ。
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敷地内の近代美術館は1月で閉館ということで、見学者が列をなす。
自分の生まれたころに開館したものが、老朽化で取り壊されると言うのは、何とも悲しい。
内部は最近の美術館に比べ確かに狭く、役割果たしたのかも。
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